見送りの日

その日、そのとき。

青年は己が振り落とすその手が、他の誰かさんの頭骨を叩き割ることを恐れていたのだろうか。

青年は誰かさんが己の頭骨を叩き割る、近づきつつある現実の脅威に震えていたのだろうか。

青年は赤の他人の手に宿る、ひとを叩き殺す手という命が怖かった。

青年は己の手が、ひとを叩き殺す命を宿している、そのことが怖かった。

誰かに殺されてしまう、その前に、誰かを殺してしまう、その前に、わたしは己の手を殺さなくてはならない。

そうしなければ、いずれ誰かがわたしの頭骨を砕くだろう。

そうしなければ、わたしの手はいずれ誰かの頭骨を打ち砕いてしまうであろう。

青年は本部キャンパスに程近い神社の境内に、夕暮れてひとり。全身に満遍なく灯油を振り掛けてから、マッチを擦った。

やっとだ。やっと。

大学に入学して、はや三年。三帖間のアパートにて、夜半、頭からふとんを被ってラジオに耳をそばだてていた毎日に、あれほど青年に恐怖を抱かせた、底知れぬ闇。

燃え盛る炎に包まれていては、目蓋を閉じていても、視界すべてが燃え盛っている。

己の、ひとを殺す手の、皮膚が燃え始める。

己の、ひとに打ち砕かれるべき頭骨を被う、髪の毛やら何やらが燃え盛る。

青年は己のたんぱく質が香ばしく焦げるにおいを嗅ぐ。

芳しい、わたしだけの匂い。

燃え尽きてしまうと、生の最後まで青年を悩ましていた、あの闇に包まれる。

三帖間にてひとり、昼間からふとんを被り、震えながら見つめていただけの、あの闇。あの闇の中に、焦げて三分の一にまで華奢になった身体が、いま本当にすっぽりと闇の中に包まれている。

その闇は、青年を包んだその闇は、冷たかっただろうか、暖かかっただろうか。

青年は火葬場での火葬を待つことなく、己を火葬し、一九七二年二月九日、学費闘争で揺れる早稲田大学本部キャンパスに程近い神社の境内にて、未来を見ることなく、未来永劫となる。

ハッピー・バースデイ。

一九七二年二月九日、ぼくは産声を上げた。

青年のたんぱく質の組織は、生まれたばかりのぼくとそれほど変わらない姿をしていた。

ぼくは生まれながらにして、ぼくの皮膚が焼ける、焦げる、その匂いを知っている。

痛いほどの羞恥に焼かれて、日々を見送ろう。

ぼくが「見送りの日」を生きていた、その日のショット。
 ビートの乱打で、ビートをなし崩しにできると信じていた。
 ビート、「生きる鼓動」の話だ。