「見送りの日」
「チョウ・クンス」。初めて彼女が自分の名前を教えてくれたとき、僕はその耳慣れない語感に戸惑ってしまった。日本で生まれ育ち、美しい京都弁で話す彼女を、僕はてっきり日本人だとばかり思い込んでしまっていたのだ。
彼女の名前は「袖君琴」と綴られる。僕が差し出した紙切れに彼女がボールペンで書いたその綴りを見て、僕はやっと彼女が在日韓国人であることを悟った。不意を突いた不思議な衝撃が僕を襲って、その後の二人の会話を奇妙にぎくしゃくしたものにしてしまったことを覚えている。
彼女は常に毅然とした雰囲気を湛えていて、大学の無闇に広い大教室の中でも何処か異質な光彩を放っていた。その視線は非常に醒めた光を潜めていて、見据えた対象を確実に射すくめるような風情がある。初めて見掛けて、まだ名前さえも知らない彼女と「いま話をしたい」といういささか滑稽な衝動が、その時、僕の背中を押した。
「大学って退屈だよね」
それが僕が彼女に向けて一番最初に口にした一言だった。なんて間抜けな話題を持ち出してしまったものかと僕は内心すぐに赤くなってしまった。それでも、彼女のその時の反応は決して悪いものでなかった訳は、その時限の講義が本当に退屈だったからだろう。
彼女の話す透明で綺麗な京都弁の抑揚は、僕の気持ちを妙に楽しませて、講義が終わってからも会話を終わりにさせたくないと思ってしまった。当初の印象と全く違わずに聡明な人で、慣れない振る舞い(知らない女の子に声をかけるなんて、彼女が最初で最後だ)も後悔せずいられた。
名前を尋ねたのは次の教室へと向かう寸前、別れる間際のこと。その顛末は冒頭に記した通りだ。
その後にも講義が一緒になる度に僕は必ず彼女に一声掛けるようになった。暫くの時を経ると僕は彼女とすっかり打ち解けられたのだと思い込んでしまうようになっていた。しかし結局、僕らふたりの「あいだ」に横たわる、この両手では掴み取れないぎくしゃくとした何物かは何一つ拭えていなかったのだ。その数週間後に彼女と交わした会話を、僕は一生涯忘れることがないだろう。
「韓国文化研究会」。ある日、彼女は早稲田大学の学内でも多少とも名の通ったそのサークルに入部したことを僕に打ち明けた。しかし当時、「韓国文化研究会」が学内のとある過激派と関わりがあるという噂を聞いていた僕は次の一瞬、
「あそこは危ないんじゃないの」
と自分では何も意識しないうちに口走ってしまっていた。そんな僕の言葉を聞いた彼女は、すかさず目の前の僕を睨みつけて、
「そんなことはない。皆、まじめに民族の歴史を勉強してます」
と毅然とした口調で激しく言葉を返した。
その時の彼女の瞳の底に映る、僕への失望と、怒りに触れる一種複雑なひかりの交錯。それは僕が18年間の生涯で初めて出会う類の、余りにも悲しい色を湛えていた。いまでも僕の記憶の中で、その鳶色のひかりと、彼女が口にした「民族」という単語(僕らはその単語に切迫した強意を込めることがない)は、何処か異質な色彩と、軋んだ音質を放って止まない。そして当時もいまも、こんな僕には彼女に向かって言い返す言葉など一片たりともありはしないのだ。
その日を境にして、僕と彼女とはいつの間にか疎遠になってしまった。在日韓国籍の人を真直に意識したのは彼女が生涯で初めてだった僕は、自らの無知を恥じると同時に、彼女に対して何故かしら気後れするものを感じるようになっていった。
例えば朝鮮人蔑視、或いは指紋押捺拒否問題、そして何よりも侵略と植民化教育。様々なキ−ワ−ドがいまでも僕と彼女の「あいだ」に横たわっている。僕が彼女以上にそれらの問題を切実に感じることはないという現実が、僕ら二人を隔てる距離に比例する。
痛いほどの羞恥に灼かれて、日々を見送ろう。
18歳、大学一年の春。贖罪の祈りと、いまでも静かに打ち鳴らされる癒しへの希求。
1990年の4月、僕の”見送りの日”の始まりのことだ。
1993年未明、中尾千里
以下は改作された未完成の草稿です。
見送りの日
なかおちさと
その日、そのとき。
青年は己が振り落とすその手が、他の誰かさんの頭骨を叩き割ることを恐れていたのだろうか。
青年は誰かさんが己の頭骨を叩き割る、近づきつつある現実の脅威に震えていたのだろうか。
青年は赤の他人の手に宿る、ひとを叩き殺す手という命が怖かった。
青年は己の手が、ひとを叩き殺す命を宿している、そのことが怖かった。
誰かに殺されてしまう、その前に、誰かを殺してしまう、その前に、わたしは己の手を殺さなくてはならない。
そうしなければ、いずれ誰かがわたしの頭骨を砕くだろう。
そうしなければ、わたしの手はいずれ誰かの頭骨を打ち砕いてしまうであろう。
青年は本部キャンパスに程近い神社の境内に、夕暮れてひとり。全身に満遍なく灯油を振り掛けてから、マッチを擦った。
やっとだ。やっと。
大学に入学して、はや三年。三帖間のアパートにて、夜半、頭からふとんを被ってラジオに耳をそばだてていた毎日に、あれほど青年に恐怖を抱かせた、底知れぬ闇。
燃え盛る炎に包まれていては、目蓋を閉じていても、視界すべてが燃え盛っている。
己の、ひとを殺す手の、皮膚が燃え始める。
己の、ひとに打ち砕かれるべき頭骨を被う、髪の毛やら何やらが燃え盛る。
青年は己のたんぱく質が香ばしく焦げるにおいを嗅ぐ。
芳しい、わたしだけの匂い。
燃え尽きてしまうと、生の最後まで青年を悩ましていた、あの闇に包まれる。
三帖間にてひとり、昼間からふとんを被り、震えながら見つめていただけの、あの闇。あの闇の中に、焦げて三分の一にまで華奢になった身体が、いま本当にすっぽりと闇の中に包まれている。
その闇は、青年を包んだその闇は、冷たかっただろうか、暖かかっただろうか。
青年は火葬場での火葬を待つことなく、己を火葬し、一九七二年二月九日、学費闘争で揺れる早稲田大学本部キャンパスに程近い神社の境内にて、未来を見ることなく、未来永劫となる。
ハッピー・バースデイ。
一九七二年二月九日、ぼくは産声を上げた。
青年のたんぱく質の組織は、生まれたばかりのぼくとそれほど変わらない姿をしていた。
ぼくは生まれながらにして、ぼくの皮膚が焼ける、焦げる、その匂いを知っている。
青年は学内を肉食獣のように闊歩する、あの憎き革命的マルクス主義者同盟の一員ではなく、ここ早稲田大学にてはねずみのようにしていた、少数派の中核派でもなく、そしてブント派でもなかった。
青年はあらゆる『派』の狭間で揺れていた。
やれ代々木派だ民コロだと、小馬鹿にされていた、黄色いヘルメットの民青学生とも親しかった。
それでも青年は『派』ではなかった。
派という派に触れ過ぎたために、己が人間という、ひとを襲う唯一の動物であることに気づき、そのことをいたく恥じた、まったき人間のごとき、青年だった。
ハッピー・バースデイ。
一九七二年二月九日、青年はあまりに短い道行きの終わりに、因果という目には見えない、しかし赤児の手にはあまりにも重いものをぼくに手渡しして、未来永劫を知ることもなく、未来永劫となった。
ぼくの肌が男児にして破格に艶めいているのは、青年の肌がもはやリサイクル不能なほどに、見事に焼け焦げていたので、その替わりにと、ぴかぴかの新品を授かったからだ。
しかし新品の皮膚に包まれたぼくにも、ひとを殺す二本の手が、満足に生えていた。
ハッピー・バースデー。
世界こそがおかしいところなのに。
青年そのひとが悪かった訳ではなかったのに。
青年は世界の誰かに殺されるよりもさきに、そして世界の誰かを殺してしまうその前に、灯油で全身を濡らして、マッチをすった。
世界を殺さずして、己を焼き、殺した。
ぼくは子供のころから、火遊びが怖かった。
マッチを擦れない性分のために、二十歳の女の子が大袈裟に驚く。
「わたし、煙草を吸わない大人の男のひとなんて初めて見ました」
負け犬。世界は不条理だなどと叫びつつ、己の手に宿る人間たる不条理に脅えて、負け犬は世界を焼き殺すよりもさきに、己を焼いて、殺したのだ。
青年は逃げたのか。それとも、ひとを殺してしまいそうな手を殺すことこそ、あたらしい時代の革命ですとでも言いたかったのか。
そんなに意地悪な言いかたはやめてくれと、青年の声が聞こえる。
わたしは負け犬で結構。逃げたで結構。そうでなければ、みんながあれほど切望する革命のさきが、バラ色ではなくなってしまいます。わたしの些細な、いえ、『些細なわたし』の決断によって。
次に生まれ変わるときにはもっと狡猾な負け犬。計算尽くした負け犬になりたいです。
青年はもはや何かを訴えることに疲れ過ぎていた。
さよなら世界、そしてハッピー・バースデイ。
それにしても青年は世界というものをどれほど知っていたのだろうか?
最高学府という、お子様たちの最後の王国、大学にて、青年は降りてしまった。世界から。だからと、そのかわりにと、ハッピー・バース。ぼくが産声を上げました。
学校というものが大嫌いだ。
小学校二年生のぼくは、毎朝、トイレにこもり、微熱にて立ち止まるどまる水銀の『のろま』に満足できずに、体温計を逆さに振り回して、嘘の高熱に喘いでいた。
やぶ医者は思いもしなかった。わずか七歳のこどもが学校に行くことを嫌がるなどとは思いもしなかった。時代もまだ、ぼくに『のろま』だった。
あわれ、熱心さだけが売りものだった、そのやぶ医者は、ぼくの嘘の熱に、『気管支肺炎』という光明たる、見事な名前をつけてくれた。
レントゲン写真を撮ってみると、確かに左肺につながる気管支には白い影が覗えた。
きっとそれは嘘の影。それでもありがとう。
青年から貰った新しい身体は、病気に、とてもよくできていた。レントゲンまでも騙せる、よくできた身体だった。
『気管支肺炎』の日々はひかり輝いていた。
共働きの両親が家を出た後、怖い兄が帰ってくるまで、ひかり輝く部屋の中で、ふとんにくるまっていればよかった。
退屈なときぼくは、ふとんを抜け出し、狭い分譲マンションの各部屋にある、様々な引出しを開けてみるのだった。
洋箪笥の引出しには、母親が集めていた、ぎざぎざのついた十円玉がたくさん詰まっていた。いずれ価値が出るからと、母親が集めていた、ぎざぎざ。
浮かれたぼくは、家をも抜け出して、学区外にある駄菓子屋で欲しいものを手に入れた。
その日、ぼくは何を買ったのか? あれはプラモデルだったか、お菓子だったか?
いまとなっては思い出せません、お母さま。それでも、あのときはお世話になりました、ありがとうございます。
兄の机。その未知なる引出しの中には、CABINと書かれた小さな赤い紙箱の中に、煙草とライターが隠されていた。
『これは何か恐ろしいものだ』
火遊びが何よりも怖かったぼくは、その赤くて恐ろしい箱を手に掴んで、ベランダから外へと投げ放ちました。
兄はいまこの回想の時間にて三二歳。実際に煙草を吸っている兄を、ぼくは一度たりとも見たことがない。
ぼくは怠けつづけた。頑張って怠け続けた。他人よりも<もっと>って思って、一生懸命怠けました。
僕は確かに「見送りの日」という時代を生きてきました。
大学に現役合格した僕は桜咲くキャンパスですっかり有頂天だった。
僕は自分が登り調子であることを一八歳の肌でしっかりと感じていた。
「何か企んでやる」
そんな気分を後押しするように、早稲田に靡く風はたとえゴミ混じりであろうとも、飽くまでも清々しかった。僕が大学で展開しようとしていた「企み」とは、ずばり政治運動のことでした。
「孤高の美学」というものがこの社会にはある。
世間一般の風潮に逆らって敢えて反逆の道を行くこと、などと言えば恰好がいいが、実際にはそこに貴族意識が見え隠れしていたりして、その内実は結構複雑なものだ。
ところが若さという熱狂の最中にいると、当の本人はその複雑さに気がつかない。
そして僕もそうした「孤高の美学」というウィルスに冒された滑稽な青年のひとりでした。青二才。
さて、この「孤高の美学」が政治意識という厄介な代物と結びつきやすいのが、大学というモラトリアム空間のひとつの特色である。
そしてスターリン的社会主義諸国の崩壊、資本主義の勝利を祝う万歳の合唱が鳴り響いていた一九九〇年、僕が敢えて選んだ道は、「サヨクたること」であった。
この選択は決して咄嗟の思いつきではなく、僕のそれまでの歴史や家庭環境の中で育まれたものではあれど、「一九九〇年のサヨク」は「孤高の美学」に酔う若さを満足させるためには充分な自己投企でした。
全共闘時代にあれほど世間を騒がせた早稲田大学も、一九九〇年の政治地図はすっかり様変わりしていた。
早稲田特有の野党ポーズや「庶民の早稲田」なんてマニフェストは、もうすっかり過去の遺物になろうとしていた。
学生の大半は無党派だったし、それも比較的に政治に無関心なものが多かった。
古き良き「早稲田神話」を信じて入学した新入生は四月の終わりにはもう落胆してしまうしかなかった。
何たって一九九〇年、時代はバブル全盛期だ。
1989年の消費税導入も、日本経済の空虚な膨張を失速させはしなかった。
「政治より消費」、時代の流れはそんな感じだった。
ところが「孤高の美学」に胸躍らせている僕にとって、それはむしろ歓迎すべき風でした。
講義が始まる前の新入生歓迎式。僕のクラスのチューターがたまたま学部学生自治会の副委員長だった。とても気さくなひとで、こんなひとが政治活動をしているなんて信じられなかった。その分、「サヨクたること」の垣根はより低くなった。
その先輩と親しくなると同時に、僕は確実に学部学生自治会との繋がりを深めていった。新入生の五月、僕は呆気ないくらい簡単に早稲田大学法学部学生自治会の副委員長に当選しました。エスカレータを昇るよりも簡単でした。
桜の花びらが南風に揺れて散り始めたキャンパスだった。僕はそこで一生涯忘れることの出来ない女の子に出会いました。
「チョウ・クンス」
初めて彼女に名前を訊ねたとき、僕はその耳慣れない語感に一瞬戸惑ってしまった。
僕が差し出した一片の紙切れに、ボールペンで「袖君琴」と自分の名前を綴る彼女を見てはじめて、僕は彼女が在日韓国人であることを覚った。
最初に見初めたその日から彼女は特別でした。
それは彼女がいわゆる「美人」であったことも大きな要因だろうけれど、何よりも僕をひきつけたのは、あらゆるものを射抜くような彼女の鋭い視線とその行方です。
あまり使いたくない言葉だけれど、彼女の背後には確かに「アウラ」と呼ぶべきものが輝いていたのだ。そして、その「アウラ」は大学の大教室でもはっきりと分かる本当のひかりだった。
偶然にも僕の横の椅子に座り、民青同盟たちが机上にばら蒔いた「学生新聞」を熱心に読み始めた彼女の横顔を見ているうちに、僕はいま何か話し掛けたいという衝動に背中を押されたのです。
「大学って退屈なところだよね」
僕はその言葉を口にした瞬間に、間抜けなことを言っていることに気がついて内心赤くなってしまった。それでも彼女の反応が悪くなかったのは、その時限の講義が本当につまらないものだったからだと思います。
幸いなこと、僕と同じ一八歳の彼女は見掛けよりもずっと気さくな女の子だったのだ。
「うん、まわりの学生とかみんなやる気がないみたいでしょ? 私もそれでがっかりしてる」
彼女の綺麗な京都弁の抑揚が僕の耳に心地好く響く。
僕は殺伐とした大学という収容所の中で、ひっそりと咲く花を見つけたんだ。
一目惚れ? そうかもしれない。
でもそれは恋だとか何だとかとはちょっと違う性質のものだった。
僕は何故だか「同士」と呼ぶべきひとを見つけたような気分になったのだ。
「孤高の美学」の同士だろうか?
名前を聞いたのは講義が終わった直後、それぞれ次の教室へ向かう別れ際のこと。
「袖君琴 チョウ・クンス」
紙片に書かれたその名前が持つ音も綴りも、それまで僕が出会った数多くの名前の中で一番美しかった。その感慨はいつまでも変わらない。
それからというもの金曜日の三限目になると僕は自発的に彼女と言葉を交わすようになった。
特に僕が強くひかれたのは彼女の政治意識の高さだった。
でも残念ながら学生運動に勧誘することは無理。
彼女が共産主義という言葉に過敏だったから。
僕はそこに二つの国家によって分断されている朝鮮半島の悲劇を見た気がした。
でも当時の僕は、そんな障害はやがて自然と乗り越えられるものとばかり思い込んでいた。
ところが彼女との断絶は、その後に思わぬ形で訪れることになる。
僕と袖君琴との本当に断絶は唐突に訪れました。
それはいつものように講義の帰りに会話を交わしていたときのこと。
彼女は新しくサークルに入ったのだと僕にいう。
そのサークルは「韓国文化研究会」、校内では略して「韓文研」と呼ばれていた割と有名なサークルだった。
何故、有名だったのか?
当時の韓文研は革マル派ではないある過激派学生たちとの繋がりで有名だった。そのことがまず念頭にあった僕は、つい「あそこは危ないんじゃないの?」などと口を滑らせてしまった。
そんな僕の失言を聞いた彼女は、すぐさま昂然と抗議しました。
「そんなことありません。みんな真面目に民族の歴史を勉強しています」
そのときの彼女の瞳に映る僕への失望と怒りの眼差し。
僕はいまでもあの大きく見開かれた鳶色の瞳を忘れることが出来ないのです。
僕ら日本人は彼女ほど「民族」という言葉に強意を置かない。
彼女は痛く唇を噛み締めたままに、僕を見据えている。
在日韓国人であることの痛みに初めて接した一八歳の僕は、ただ真っ白になって立ち尽くしているほかになかった。
例えば指紋押捺問題、朝鮮人蔑視、そして皇民化教育や従軍慰安婦問題を始めとする侵略と凌辱の血塗られた歴史。
僕らふたりの間には、「個人のチカラ」では書き換えることのできない過去といまがある。
崩壊。孤高の美学の崩壊もまた、呆気なく僕を潰しました。
学部自治会の三役選挙に立候補してからというもの、連日に渡る革マル派学生との生産性のない討論、スコラが1年半以上に渡って毎日続けられていたのです。
革マル派は毎日僕を捕まえては一時間、二時間と益のない論争を仕掛けてきた。彼らは僕の電子手帳を盗み、交友関係までさらう。ご丁寧にも毎日、大熊銅像の前で僕を名指しで批判する。ハンドマイクを大音量にしてだ。彼らの大半は30歳台だった。ぼくは18歳。ぼくは18歳。そして19歳になった頃、ある日、僕の胃に激痛が走りました。
神経症による十二指腸潰瘍と医師は診断。
神経症になってのドクター・ストップ。
大学二年の過酷な夏です。
ドロップ・アウトした先の闇は、何処までも暗く深く続くようでした。
本当に目の前が真っ暗になるんだよ。
思考が停止して、ただひたすらな闇だけが脳の中に生まれたとき、実際の視界の方も暗闇の底に落ちるんだ。
東京大学病院精神神経科外来診察室。
そこが僕のあたらしい収容所の名前だった。
学生運動の日々が嘘のように静かな、しかし過酷な沈黙を聴く日々が続いた。
「学校に行ってはいけません。症状は必ず悪くなります」
医師はそう断言した。七歳の僕の身体、左肺に白い影があり、僕は大嫌いな学校に行くなくてもいい、そんな身になった。そして19歳、学校に行ってはいけませんとあたらしい先生も、そう断言してくれました。ぼくは学校が大嫌いな場所だったことを思い出しました。
学生運動の罵り合いの日々、その喧騒から身を剥ぎなさい。
あたらしい静かな生活に浸りなさい。
このあたらしく訪れた、この静かな日々は「反省」にとても適していました。
静かな生活、反省のときを経て、いま僕は袖君琴との最後の場面に時を越えて立ち戻ります。
過激派の学生が韓国文化研究会に出入りしていたとして何であろう?
それでも袖君琴は、毅然とした瞳をたたえる、あの日のチョウ・クンスのままだ。
当時の僕は政治地図の座標を眺めることばかりに汲々としていて、ついに「ひと」を見ていなかった。反省の時間はぼくにそう教えてくれました。
赦しはいつ、何処に訪れるのか?
ひとを損ない、傷つけたことへの赦しは?
それから僕は学校から一歩離れて、自力で勉強を始めました。人間というものへのより深い理解を求めて。
それは遅ればせながら、大江健三郎の「政治的人間」と「性的人間」の議論を蒸し返したり、プラハの春の最中、ソ連軍の戦車によって押し潰されたミラン・クンデラを読み漁ったりしながら、孤独という薄闇の部屋で、僕はひたすら赦しを求めて、手掛かりになりそうなものには片端から手を着けました。
やがて「摂取」することから、自分で「発信」する方へと自然にスタイルが移ってゆきます。
すべての文化の起源が祈りであることを、この身をもって再確認したからか。
ハンドマイクはギターに変わった。学校の替わりにステージに通う、そんな時代が幕を開けたのです。
それでも赦しはいまだ僕を訪れないと今日も確認します。
袖君琴、彼女のその綺麗な鳶色の瞳は、あの日、怒りと失望の入り混じった涙で潤んでいたんだ。
それはとある夜更けに不意に甦る、拭おうとしても拭いきれない、忘れ得ぬ記憶。
贖罪の祈りと、いまでも静かに打ち鳴らされる、止むことなき癒しへの希求。
痛いほどの羞恥に妬かれて日々を見送ろう。
「見送りの日」を生きることは、祈りを生きることと同義。
その意味で僕はいまだ「見送りの日」を生きているのかもしれない。
それでも、僕はこんなにも寂しい所が、この身の最後の死に場所ではないことを知っている。少なくとも、そのつもりで日々を生きている。眠りに落ちる。暗闇と再会する。青年が灯油を被りマッチを擦り、己を火葬したその先の闇は生まれ変わった僕の住処? 出口なし。
それでも、もしも未来に望めるのなら、ひとつだけお願いです、密やかに、赦しを。