なかおちさと

 我らの時代のギャングたちは何故コンビニエンス・ストアなんかを襲うのだろう?
 古き良き時代のギャングたちのように宝石店を襲った方がずっとゴージャスで素適なのに。

 「僕の太陽は決して沈まない。僕の夜はいつまでも終わらない。誰も僕から盗めやしないんだ。盗み続けるのは僕の方さ。そしてこれからきみがその証人になるんだよ」
 みずうみは雛の頭を両手で抱えて、彼女のビー玉の瞳を覗き込みながら、挑むように、歌うように、そう叫んだ。雛はみずうみの唇に、自分の舌を絡ませて荒々しく吸いつき、息継ぎの合間に挑発するような低い声で囁いた。
 「そうね、あなたの太陽は絶対に沈まないし、あなたの夜は何時までも終わらないわ。見せてちょうだい。わたしがすべてを見ていてあげるから」
 それからふたりは最強のギャングたちのように何ものも恐れることなく愛を交わした。雛はみずうみの薄っぺらな胸板の骨格の感触が好きだった。みずうみは絡みついた舌よりも、背中に押しつけられた、雛のてのひらの微熱のことで頭がいっぱいだった。

 「リアリティ」には最後まで買い手がつかなかった。貧相なドラッグ・ストアの片隅でうっすらと埃を被って、三月初めのまだ冷たい風に晒されていた。誰も「リアリティ」なんか欲しがらなかった。誰も「リアリティ」なんか欲しくはなかった。みずうみもそっぽを向いて、かたかたと店の中を歩き回り、何かもっと面白いものはないかと探していた。
 地球上でただひとり、雛だけが、儚げに売れ残った「リアリティ」に眼を留めた。
 雛はまず人指し指で表面の埃を払ってから、「リアリティ」が詰まった薬瓶を自分のてのひらの中で温めてみた。そのとき「リアリティ」は彼女の手の中で数秒間だけ確かに鼓動した。一瞬の直観が雛を叩いた。
 「何の役にも立ちそうにないけど可愛いいから、家に持って帰ってあげましょうよ」
 雛はまだ捜し物をしているみずうみに向かって発作的にそう叫んだ。そしてみずうみの返事も待たずに、その場に複数あった「リアリティ」を薬瓶ごと自分のポケットに押し込んでしまった。
 代金なんて払わなかった。店員も「リアリティ」のことなど忘れていたから、誰も雛の行動に気付きもせず、何の騒ぎも起きなかった。そうして「リアリティ」はようやくこの世界の中で引き受け手を得た。雛の密かなポケットの中。

 青白い月が何処までも澄んでいる夜になると、熱いお茶を飲んでみる。
 体が温まると、記憶も溶け出す。
 見た。見なかった。覚えている。忘れられない。
 記憶はいつしか物語のようになる。モノが語り出す。語るに任せる。
 見た。見なかった。どちらでもない。とにかく覚えている。忘れられない。
 パン!
 音だった。ゆめの音。うつつの音。どちらでもない。ゆめうつつの音。
 それ以来、迷子になってしまいました。
 飲み込んだお茶がひとの体液になるように、反芻する記憶はいつしか物語になる。それはなんて不思議なことなのだと思います。

           ☆かけらの、ぜろ、“追憶のかけら”☆

 雛は文字を売ってその金を暮らしの糧にしていた。
 文字を売る。
 ときに展覧会にて。ときにワープロ・ソフトの開発会社にて、文字を売る。
 書道界にあたらしい美学。ワープロ・ソフトにあたらしいフォントを生産する。
 一方、みずうみには何も売るものがなかった。だけど、みずうみは近い将来にきっとギャングになるのだと雛に約束していた。ギャングとは如何なるギャングのことなのか、その正体など分からなかったけれど、雛は彼の約束を無条件で信じた。
 だから、みずうみは少年のように養われるだけの身でも許された。
 いずれにしても雛の書いた文字にはひとを癒す特別な力があると評判だった。背広を着た顧客が雛の個展のオープニング・パーティーにて、赤、白のワイン・ボトルを持参して、先生にご挨拶する。描かれた文字には結構なお値段がつく。ふたりでつつましく暮らせる位の温かな収入が生まれた。

 あの頃、その夕べ。雛は太陽が沈むと、ボトルに向けて、覚束ない十本の指を延ばした。
 雛の指が繊細に空中を掻き乱して、やがて冷たく艶めかしいボトルの体を何となく抱きかかえると、褐色のアルコホルと白濁した気体の境界は大きく波を打った。
 雛は深く息を吐き出しては呼吸を止めて、数秒間かけて無意味な窒息を試みた。そして次の瞬間には再びか細い息を吹き返してみせるのだ。その仕草は彼女の生活儀式のひとつだった。
 その執拗に繰り返す単調な儀式の最中、雛は何事かを呟くように祈る。
 雛は埋葬された過去の記憶を再び開くために祈っていた。
 何で死んでしまったの、何で死んでしまったのと、まだ死んでもいない自分に向かって、何度も何度も問いただしていた。
 その瞳は潤んでいた。ときにみずうみは思わず彼女の瞼を両手で優しく押さえた。彼女の涙が溢れてしまわないように彼女の瞼を両手で優しく押さえた。

 あの頃、その朝や昼。みずうみは、ひとり、みずうみの自身の内を流れる水脈を手探りすることに懸命だった。
 みずうみの水脈は波立っていた。彼は緩慢な窒息を試みようと、青く艶めいた小さな錠剤の表面を、右手の親指の腹で何度も何度も撫で続けていた。
 水色した、ほんの小さなラグビーボールのような愛しい錠剤が五粒。そいつが湿気を帯びるほど、不潔に濡れて輝くほどに何度も繰り返し撫で続けた。
 水平を鎮ませよう。
 水平を鎮ませよう。
 波。
 闇に波。
 みずうみは思い立ったかのように唐突にボトルを握り、中に入っているアルコホルを一口含む。楕円形の小さな錠剤たちを舌に乗せて、しばらく舌の上で転がす。
 やがて奥歯で錠剤を粉々になるまで噛み砕いて、その微かな甘さを味わうよう飲み下す。それから口の中を清めるためにと、もう一口アルコホルで食道を濡らす。
 波。
 闇に波。
 闇の中でしか発見されない愛。
 闇の中でしか水平は鎮まならない。
 だから朝も昼も、太陽が彼を焦がす時間が怖い。
 ゆっくりとみずうみの潮は退き始める。今朝と今日を抜けて、今夜へと運ばれてゆく。
 まだ幼い子供のくぐもるような笑い声が、耳元ではっきりと聞こえた。
 「待って、おかあさん。もうすぐ僕もそこにいくから」
 みずうみは盗まれながら、運ばれてゆく。数を唱えて、逃げてゆく数たちを追い駆けて行くうちに、もといた場所に帰ることを忘れてしまえる。

 あの頃、その晩のこと。雛は、みずうみが何事かを自分に向けて話し始めてくれるのを待っていた。
 酔いどれのみずうみには雛のために辻褄の整わない奇妙な神話を話して聞かせる奇妙な癖があるから、彼女はその夜もみずうみが紐をほどく神話を聞くことを期待して、白熱灯の薄暗い明かりの下で、ずっとみずうみの語りを待っていた。
 みずうみが神話を開封するその瞬間に流れ出す、一種のやすらぎを待望しながら、穏やかな波を待つ小舟の姿勢で、一晩中ずっと起き続けていた。でたらめでインチキで、とんだペテンだけれども、気の効いた素適な結末を信じて待っていた。
 そのとき、みずうみはきっともっと遠く離れた所から、停滞に佇んでいる雛を眺めていたのだろう。
 雛に対する微かで捉えがたい哀惜の念が沸き起こってきて、みずうみの意識を軽く掻き乱しただろう。
 みずうみだって早く彼女のそばに帰ろうと思っていたはずだ、きっと。
 でも今夜はもう遅すぎた。
 みずうみはすでに遙か沖合に流されてしまった後だった。
 錠剤とアルコホルの化学反応が、みずうみをどこでもない場所に連れ去ってしまった後だった。
 「ごめんね、今夜の僕はボタンを掛け間違えてしまったみたいだ。ごめんなさい。ごめんなさい」
 あらゆる水平は鎮まり、波風ひとつ立たないその行く先で、みずうみは雛を遺してひとり重い眠りに沈んだ。

 雛は眠りに落ちてしまったみずうみの頬にやさしく拳骨を押し当てて、いたずらの後のように舌を出して精一杯顔をしかめてみせた。ひとりテーブルのうえに額を当てて、眼を閉じてみた。耳を澄まして何処までも冷たい夜を聴いてみた。
 その晩、ついに雛は眠らなかった。
 月影の銀。蛍光灯の冷たいひかり。青白く、どこまでも”はかないものたち”に囲まれて、か細いみずうみの寝息のうえに、雛は「数」を重ねていった。
 いち、に、さん、いち、に、さん、よん、よん、よん、ご。
 吐息のように掠れがちな音量で薄明に響く雛の祈りごと。儚いその残響を聴き遂げたものは雛ただ一人だけだった。

 「無敵のギャングたちのように何者にも触れさせなければいいのに」
 雛はみずうみの寝顔を見つめながら、そう祈っていた。
 「無敵のギャングたちのように恐れるものなど何もなければいいのに」
 みずうみは心の奥底でいつもそう呟いていたのだろう。
 ふたりはいつでもそばにいて、それでもふたりともいつも独りぼっちだった。
 大事なことはたったいまふたりの間に横たわっている距離ではなくて、生まれてきた所からの遠い距離なの。あるとき、雛は疲れたようにそう呟いた。その時、みずうみは自分が生まれ来た遠い闇のことを思い返し、雛がやって来た、光の散乱する原始の宇宙を思い描いた。

 これまで僕はずっと暗闇の中にいた。気がつくと、いつも洪水の音が聞こえていて、その音がとても怖くて、僕は何も考えたくなんかなかった。目の前をよぎるもの、そんなやつらはいつかはみんな溺れて死んでゆくものたちなんだとか考えちゃうから。そして長い暗闇を抜けて目覚めたひかりの中にきみがいたんだよ。
 みずうみの記憶。

 雛は眠っているみずうみの頬を柔らかいピンクの舌で優しく何度も何度も嘗め続けた。みずうみが壊れてしまわないように朝が来るまで優しく嘗め続けた。みずうみの短い髪は雛の流す唾液でこわばってしまうほどだった。
 それでも雛は朝が来るまでと呟きながら、みずうみの顔を嘗め続けた。
 みずうみが壊れてしまうところを雛はもう二度と見たくなかった。
 みずうみが壊れてしまうと、雛はいつも譬えようもない哀しみに襲われてしまうから、もうそれだけはごめんだった。
 みずうみに僅かな亀裂が生じただけでも、雛はすかさずその部分に自分の柔らかい舌を這わせた。自分の唾液でみずうみの裂け目を塞いでしまおうと柔らかいその舌を当てた。
 そんな時、みずうみはどうにか壊れる一歩手前で持ち堪えられた。雛がそばにいるときだけはどうにか壊れてしまうほんの寸前で踏み止まることができた。

 荒野は五〇メートル、続いた。

 都市郊外の名前もない一区角に、一辺が五〇メートルの荒地が開かれていた。
 みずうみは自分を立ち枯れた草木の根元に埋もれた卑小な一点だと思い始めた。
 今日も塵だとか灰だとかやがて掠れて消えてしまうものに自分を重ねて眺め始めてしまった。
 五〇メートルだけ続く荒野。
 名前もない場所。
 灰色の太陽。
 白けた大気。
 やがてみずうみは自分の肉体に小さな裂け目が生まれていることに気付いた。
 内蔵のように「苦いもの」が、その裂け目からこぼれ落ちて、俄に洪水している音を聞いた。
 もはや何も考えられなかった。もう何も考えてはいられなかった。ただ感じるだけだった。世界は怖い、世界は怖いところなのだと。
 彼の裂け目は次第に広がりを増し、みずうみの「苦い部分」は好奇心と相互監視に満ちたこの世界に、無防備に溢れ出した。
 みずうみは自分の内蔵を仕舞い込もうと、二枚のてのひらを押し広げて裂け目を塞ぐのに懸命だった。でもすべてはもう遅すぎた。みずうみは溢れ、洪水し、やがてあの馴染み深い小刻みな痙攣が彼を訪れるのだった。
 午前の不気味な静寂の中で、みずうみはうずくまって、この震えが去ってくれるのを待った。精神安定剤を自分の水脈の中に四粒ほど落として、世界が怖くなくなってくれるまで胎児の姿勢で震え続けていた。
 デパス、デパス、デパス。薬の名前はそのまま優しい呪文だった。
 壊れてしまったみずうみには、いまは誰とも話をする必要がないことが唯一の救いに思えた。
 やがて「苦いもの」が溢れつくし、すべてが干上がってしまうと、恐慌は遂に彼を通り過ぎていった。弛緩した口許から唾液を垂らしながら、みずうみはつかのま、眠りに落ちた。
 時間にしてわずか数十分のこうした出来事が、あの頃のみずうみの一日を不自由なものにしていた。恐慌は毎日彼を不意打ちして、その度ごとに彼は律儀に壊れた。
 だから、みずうみは毎日恐慌の訪れに身構えていて、いつでも手の届く距離に水と錠剤を置いていたという。

 夜明けだ。
「起きてたの? 泣いてないよね?」
 その朝、雛はひとり泣いていた。起きたばかりのみずうみは、怪訝そうに雛に尋ねた。
 「泣いてないよね?」
 雛の瞳はいま目覚めばかりの薄闇の中でもはっきり分かるほどに明らかに涙に潤んでいたのだから、それは間の抜けた質問だったに違いないけれど、みずうみにとって、雛が泣いている朝は初めてのことだったから、思いがけないことだったから、真剣にそう尋ねた。
 雛はみずうみの神話を待ち惚けているうちに悲しくなってしまったのだっていう。
 みずうみの寝息をすぐそばで数えていても雛は自分をひとりぼっちだと思ったって。
 みずうみをひとりぼっちだと思ったって。
 だから広がっている、とても大きくて冷たい宇宙のことを考えた。
 するとなにかが爆発した。
 「私たちは全然ギャングじゃないわ、全然ギャングなんかじゃないわ」
 恐慌に咽びながら、雛はそう言った。
 「昨日きみは、リアリティを飲み過ぎたんだよ、きっと」
 みずうみは納得のゆく理由を見つけたくて、早口でそう言いきった。
 でも自分の口からいま転がり落ちたばかりの言葉の意味を本当に知ることはいつまでもなかった。
 雛の方はその言葉の本当の意味を理解せずに、しかし確かに「感じ」知って、涙は一層こぼれ落ちた。
 「きみを愛している。愛しているから、もう僕を許して。僕を許して」
 今朝はみずうみの方が雛の顔を嘗める番だった。
 涙にむせながら、雛はそれでもまだ、同じ言葉を繰り返し唱え続けていた。
 「全然ギャングじゃないわ、全然ギャングじゃないわ」
 みずうみは返す言葉も、言葉そのものを滑り込ませる隙間さえも亡くした恐慌の中で、雛の顔を嘗め続けた。
 でもその日の彼の唾液は、雛のどんな傷口も塞ぐことが出来なかった。
 みずうみは雛に悪いものが取りついたのだと自分に言い聞かせた。呪われているのはみずうみ自身だったのに。

 呪い?

 都市生活者として長く生き続けていると、ときに奇妙な幻想と出くわすことがある。
 林立するオフィスビル街のはずれの路地の右手に広がる空間や郊外の住宅地の一角にぽっかりと口を開けている管理人不在の荒れた土地。そこには役所の手も及ばず、それ故におそらく番地さえも知られていない。およそこうした空間には不在だけがある。「ある」のは「ない」だけだ。
 背の高い草が、枯れかかった細い腕をなびかせて乱雑な風に吹かれ、蔓の上に蔓を折り重ねる。周囲を囲む錆びた有刺鉄線の鉄条網が、こんな荒れ放題の土地にも所有者たる者がいること思い起こさせる。
 有刺鉄線の向こうには、この土地にゴミ置き場としての効用を見つけだした誰かが、ステレオ装置の残骸を放置している。
 かつては音を鳴らし、いまは何ものも響かせることができないステレオ装置の遺骸。それもまた途切れることなく、ぼく、わたしに不在を伝えている。

          ☆かけらの、さいしょ、“神話の始まり”☆

 みずうみはその日も夕闇に紛れて誰も気付かないはずの空き地の草に埋もれて、「こわいものたち」とひとり葛藤していた。ここでなら、苦悶に喘いでいるみずうみの醜態は誰にも見られないはずだった。いつもの夕暮れどきならば。
 でもその日に限って、普段なら、誰も気にも留めないはずのこの空き地に、誰かが踏み込んできたようだった。
 その気まぐれな侵入者こそが雛だった。
 その日の雛には特別に急ぐ用事もなくて、彼女は家までの道のりを改めて丹念に確かめるように歩いていた。
 すると、いつもなら足早に素通りしていた空き地から、何か吸い込まれるような力が放たれていることに気付いた。
 この空き地の草むらを横断してみよう。
 雛は自分に言い聞かせるように思い立つと、ずさんに張り巡らされた有刺鉄線にストッキングを絡ませないように注意して華奢な柵を乗り越えた。それは造作もないことだった。
 ヒ−ルの底に草と土の感触を確かめると、次第に勇気に近い感覚が芽生え始めて、雛の背中を優しく押した。
 一方、みずうみは自分以外の人間がこの空き地に踏み込んでくるなど予想もしていなくて、雛の足音を耳にした途端に、俄に恐慌に陥ってしまった。
 彼は雛の通り道を塞いでしまうことに気付いていても、思うように体を動かすことができなかった。動かなきゃ、動かなきゃ、そう唱えるたびにみずうみの体は自分の意思に反して凝固してしまう。
 やがて微かな眩暈の訪れとともに、馴染み深い痙攣がみずうみの体を小刻みに揺らし始めた。みずうみはすっかり恐慌の渦の中に落とされてしまったのだ。
 雛は行く手でうずくまっているひよわそうな男から眼を離せなくなってしまった。
 そのとき雛の視界の中で、みずうみは一際美しかった。
 雛の才覚はその男の美しさを見逃さなかった。
 恐慌に震えているみずうみの目の前に、雛のてのひらが何かの恩恵のように舞い降りて来た。
 みずうみは夢中でその手にしがみついた。柔らかくて白い雛の指先が、みずうみの震えを優しく吸収するようだった。

 ふたりは最初の一瞬から、お互いを直観で認めあった。
 それぞれが、それぞれの天使になるはずだということを。
 みずうみは雛の銀色の天使。
 雛はみずうみの金色の天使。
 直感はふたりをほぼ同時に叩いた。

 泥や細かな草にまみれたみずうみを、とにかく救い出してあげなくてはと思い込んだ雛は、早口でみずうみに話し掛けた。
 「話は後よ。とにかくわたしの部屋で休んで。昨晩、美味しいス−プを作ったの。まだいっぱい残ってるから、好きなだけ食べていいのよ。でもその前にあなたを少しだけスケッチさせてもらおうかしら」
 雛はみずうみの震える手首を握りしめて、なんとかして彼を地面の上に立たせようとした。
 震えるみずうみも、僅かばかり抵抗した。
 「ちょっと待って、僕はここなんだ。ここは僕なんだ。だからそんなに急がないで」
 雛は彼の言葉を呑み込むのにしばらく時間を懸けた。
 僕はここ、ここは僕。
 雛の前に突如温かい詩の一節が開かれた。
 だからこそ雛はみずうみの言う通りにぐるり三六〇度、忘れ去られていた荒野を望んでみた。
 背の高い蔦が季節風に靡いている。
 最初に耳が遠くなったかのように、静寂が雛の聴覚を塞いだ。
 やがて草々が擦れ合う、か細い音が聞こえるようになった。掠れてしまいそうな西陽が乱反射して、雛の瞳孔につかのまの輝きを溶き流す。視界の片隅には壊れたステレオ装置の亡骸が物言わず不在をうち鳴らしている。
 すべてが虚空のうちに結晶しているその場所は、ささやかな異次元のようだった。
 「ここがあなたなのね。でも,わたしのもののようでもあると言ったら、あなたは怒るかしら?」
 みずうみはゆっくりと沈黙を置いてから、口を開いた。
 「そう、ここはきみのようでもあるし、僕のようでもある。何故そう思ってしまうかなんて僕にもまだ分からないから、尋ねちゃ駄目だよ。
 でもとにかくここは“新しい天使”の住処なんだ」

 「“新しい天使”?」

 雛はみずうみが何気なく口にした言葉に驚かされた。
 「あなたはわたしのあの文字のことを知っていたの?」
 次はみずうみが戸惑う番だった。文字? 誰の文字? 彼女が書いた文字?
 「文字? ぼくはきみの文字なんか見たこともないし、何も知らないよ。<新しい天使>は僕らの名前じゃないか」
 それ以上ふたりで会話を続ける必要はなかった。
 “新しい天使”は僕らの名前。
 その一節は当時のふたりにとって、どこまでも揺るぎない真理のように、説明を無用なものに思わせるに充分な力を持っていた。
 太陽が近くの小高い山裾に完全に没して、代わって街灯の青白いあかりが荒野を満たす。シーズン・オフの悲しいプールの底のように荒野は沈黙のうちに凪いている。
 もう家に帰る時間だと、薄闇がふたりに告げていた。

 雛はみずうみの指に自分の指をきつく絡ませて、平坦な自分の胸元に引き寄せて掠れそうな小声で囁いた。
 「もう家に帰る時間よ」
 雛はそのままみずうみを自分のアパートメントに連れて帰った。みずうみの冷たく、かじかんだ細い手首を掴んで、雛の部屋までふたりそぞろ歩いた。
 冷たくなった秋のアスファルトをぱたぱたと鳴らしながら並んで歩くふたりは、紛れようもない天使だった。
 唐突な出会いを逃さなかったから、ふたりの愛は永遠に神話の時間を生きるようになった。

 真実のシドとナンシーは本当にシド・アンド・ナンシー神話を生き抜いたのだろうか?
 起き抜けのボニーとクライドは、後の人々が期待したボニー・アンド・クライド神話にどこまで忠実だったのだろうか?
 ひたすら燃え尽き、やがて干上がってゆく大気。
 熱狂は果たして本当に人々の期待通りに、どんな瞬間にもふたりを灼いていたのだろうか?
 ねえ、このぼく、わたしがいま聞きたいものは、古い死んだ神話ではなくて、生きているこのいまの“いま”。生きた神話、神話が生きているとしたら、その鼓動はいまを歌うのだ。聴け。

 「リアリティ」の薬瓶の肌は半透明で冷たい。薬瓶の蓋をしっかり絞めれば、中に詰まった「リアリティ」は、外気から完全に遮断される仕組みになっている。「リアリティ」は実際に呑み込んでみない限り、どんな効き目もない。

 リアリティ
 いまはむかし、そういう薬があった。
 まだ歳若いぼく、わたしは神話の中でしかその薬の名前を知らない。まだ若いつもりでいるぼく、わたしは伝説の中でしかこの薬の名前を知らない。
 ぼく、わたしは二一世紀を生きる。その薬は「昭和」と呼ばれた時代の風の残り香にいまもなお吹かれているひとびとの咽喉にしがみついて生きている。

 闇が降りてきた。太陽はもう手の届かない遠くにある。見失ってしまった太陽の行方。雛はみずうみを自分の部屋に招き入れた。
 「さあ、何も気にせずにいらっしゃい」
 そして部屋の隅に置かれた、背の高い照明スタンドから、柔らかくて温かい白熱灯の光を注いだ。夕暮れや未明の大気のような薄明かりが、雛の部屋を優しく梳かしている。
 「わたしは言葉を探して、いつもこの部屋で屈み込んでいるの、ひとりで。
 そして言葉が上手いこと私を訪ねてきてくれたらそれを掴んで文字に直してみるの。わたしは実家を出て、この土地にきてから、ずっとそれで食べているの。
 それがわたしの仕事なの。おかしな仕事でしょ」
 みずうみには雛の言葉は彼女の独り言のように響いた。その意味など少しも分からなかった。
 文字。
 言葉。
 彼女の仕事。
 印象的な単語だけがみずうみの思考の砂地を転がっていった。
 でも返す言葉はひとつも思い浮かばなかった。みずうみは雛のことがまだ少し怖かったのだ。だから曖昧な相槌さえ咽喉の途中にひっかかったままだった。
 彼女は果たしてぼくの中に浸入してくる気なのだろうか?
 浸入して何を奪い、何を残そうとしているのだろうか?
 みずうみにはいま起きていることが、一体どういう事なのかをまだ完全に推し量れていない。それでもみずうみは雛のそばを離れることができなかった。
 まるで不思議な吸引力に魅せられてしっかりと渦の中に引きずり込まれてゆくようだった。
 おそらく後世の歴史家たちはそれを「運命」と呼ぶのだろうな、とみずうみはぼんやり思った。そして後年その通りになった。陳腐な話だ。
 運命。抗い難い波のようなもの。彼は人生の不思議な罠にはまったように彼女の元から立ち去れなかった。ふたりの出会いを評して、そんな陳腐な言葉を並べ立てることしかできない。
 結局、どんな合理的な道筋も、ふたりの出会いを説明できないから、雛とみずうみは今日まで、ぼく、わたしの神話を生きている。

 雛は昨夜、ありあわせの野菜で作ったポトフを、いまふたたび温め直した。昨晩、しっかり時間をかけて煮込んだスープを、今夜はみずうみのために温め直した。
 みずうみは部屋の隅で膝を両手で抱え込み、硬直しながら、「いま」を遠くから眺めている心境でいた。
 僕はここで何をしているのだろうと何度も自分に問い返しているようだった。的確に迅速に動く雛の姿がシンセ音のシークエンスのような役割を果たし始めて、いまは少しずつ、もっと強固に「 」の中に閉じ込められてしまった。みずうみは両手を延ばして、そいつに触れてみたい心境にかられた。
 やがて温かいスープが二皿、食卓のうえに置かれた。
 ふたりは食卓に向かい合って座り、無骨で大きめなスプーンでそのスープを掬った。
 ふたりはこの世の熱すべてをほぼ同時に咽喉の奥へと流し込んだ。
 それは熱い。
 それには奇妙な匂いがする。
 様々な香草、様々な繊維と焦げついた肉汁。
 そのすべてが渾然一体となって溶けていて、手間暇を懸けた末に食卓に乗せられたそのスープの中では、愛しい世界が煮えたぎっていた。
 みずうみは目を瞑って、息を止めて、苦手な玉葱のかけらを、無理やり食道の奥まで押し込んだ。それは彼の幼少からの習性だった。玉葱の甘くて苦い微妙な食感に、大人になっても慣れることができなかったのだ。
 それでも数分間の努力の末に、スープ皿は空っぽになった。
 ふたりともとても満足していた。
 食事が済むと、テーブルの上は雛によって、すぐに手際よく片付けられてしまった。すっかり整理された食卓を挟んで、ふたりはお互いを見つめた。
 それぞれが何か話の糸口を見つけようとしていた。
 そのとき、風の音が部屋の窓枠を叩いて微かに揺らした。
 ふたりの視線はほぼ同時に外の世界に向けられた。外の世界では可愛い嵐が吹きすさんでいた。

 女の子と、男の子が部屋にいた。
 「砂ぼこりが舞っていて、外は何も見えないわ」と女の子は言った。
 「じゃあ、僕らはもう何処にも行けないんだね」と男の子が言った。
 すべては自分たちの運命を諦めの視線で確認するような、ほんの小さな呟きのかけらに過ぎなかった。

 「そう、これからしばらく、あなたはわたしだけのものよ」
 慎重なみずうみよりも、ほんの少し先に「運命」を確信した雛は、そういってテーブルの上に華奢な体を投げ出して、みずうみの耳を自分の温かい両手で包み込んだ。
 しばらく沈黙して考えを巡らせ、突然思い立ったかのように、この世の何よりも頼りなげな彼の口許に、自分の柔らかい唇を押しつけた。
 ねえ、いつだって男の子よりも女の子の方が先に気付いてしまう。
 そして、「そうはならなかったかもしれない」というすべての可能性、すべての「余計な運命」はそのとき初めて完全に封印されるのだ。

 運命。きみのことが、きみのことが、こんなに大事なんだ。こんなに大事なんだよ。

 運命。
 彼女がこの日、すぐ後にみずうみをモデルにして書いた「文字」は、その後の彼女の評価を確固たる地位にまで押し上げることになる。
 雛の後年に残した作品群の真価を意図的に無視して、彼女の創作の初期と中期の架け橋となったその文字こそ、彼女の代表作にして最高傑作だとする批評がどれほど多いことか。
 「“新しい天使”;作品一一(シリーズ第二部の1)/みずうみ#〇一」
 その文字はもしかしたら作者である雛自身の名前よりも、人々に広く認知されているかもしれない。細々しく、いまにも消え入りそうな、絶妙な筆圧で紙のうえに残された四つの文字。
 この文字が書かれる遥か以前、雛は処女作“新しい天使”シリーズ第一部の一〇作品で、若くして、その美術的な評価の足場を固めていた。
 ワープロ・ソフト開発業界の凌ぎ合いの中で、業界のなかでも雛という書字家の名前が噂になる。
 それでもこの作品一一/みずうみ#〇一の登場は、それまでの彼女に対する美術界の評価を決定付けただけでなく、ひろく一般に彼女の名を知らしめるきっかっけになった。
 その作品は言葉に置き換えるうえには分かりにくい、しかしそれ故にひとびとの心の奥底に隠れ場所を見つけた薄暗い神話を、まぶしい白昼の光の中に引きずり出すような強引で分かりやすい力を備えた傑作として、様々なメディアが讃えた。
 インタビューなど、派手なことを雛はことごとく断り続けた。時折、名ばかりのジジイな批評家が、雛がワープロ・ソフトのフォント開発に携わっているのを、「芸術の本分から外れている」なんて、紋切調に批判すると、その掲載紙に反論を投稿する。それだけが雛がメディアの中で素顔を晒すときだった。だからこそ雛はカルトになり、女子高生が美大を目指すことを決意するそのときに、遠くから彼女たちの背中を応援するちからになった。

 じゃあ、始めましょう。そういって雛はキスのあとにいささかの間髪も置かずに、みずうみの着ていたタートルネックのニットを、いささか乱暴に下着ごとはぎ取って、彼を上半身のみ裸のままで、キャンパスの前に立たせた。
 みずうみはその間、雛のされるがまま、何ひとつ尋ねようとしなかった。いま何が行われようとしていて、いま何が生まれ、そして何が損なわれようとしているのかを、みずうみは何ひとつ尋ねなかったというのだ。
 傍らのストーブ一台だけがふたりの間の繊細な緊張を、少しずつ柔らかく溶かしてくれていた。

 雛は脅えているように見えるみずうみを目の前にし、彼から発せられる怯えとか緊張を見てとって、聞いておくべきことをひとつだけに絞って尋ねてみた。
 まだ出会ったばかりのふたりにとって、相手に向けて自分の感性を集中させるために一番大切と思えるもの。
 雛は彼の名前を、そのとき初めて尋ねてみたのだ。
 「ねえ、あなたの名前を聞いておきたいわ」

 「みずうみ」

 みずうみ?
 奇妙な沈黙と戸惑いが、雛の許をほんの数秒の間だけ訪れた。
 それでも、すぐさま冷淡な書字家の視線に戻った雛は、聴覚と嗅覚を存分に研ぎ澄まして、来るべき命が舞い降りてくる一瞬を待った。
 みずうみ。
 「みずうみ」。
 しばらくみずうみの半裸を見据えていると、突然、何かが雛の背骨を叩いた。
 痛み、貫かれるような痛み、この痛みこそ生みの合図だ。生まれるものが女だけにもたらす最初の痛み。
 すべての神経をその場に開いてしまった雛は、キャンパスの上にすばやく筆を走らせた。
 迸る才気が一瞬の中に凝縮される。生きているものがキャンバスの上で踊る。わずか十数分後に「文字」、それも不朽の傑作が完成した。

 みずうみ

 みずうみ。それは深い。それは青い。冷たくて、どこまでも澄んでいる。湖面の空気には名前も知れない小さな葉っぱの匂いが漂う。その小さな葉はやがて何時とも知れず、湖水に溶けて消えいってしまうだろう。

 「私は消えていってしまうものたちが好き。その子たちの消え入る仕草が可愛しくて堪らないの。“こっち”から、“あっち”の側への飛躍。その一歩が素適なの」
 文字を書き上げたばかりの雛は、俄に緊張の糸をほぐして、キャンバスの向こうのみずうみにも聞こえる程の声で、そう呟いた。
 いま書き上げられたばかりのこの「文字」が、後世にも讃えられることになる傑出した作品だとは、そのときの雛はまだ気付いていなかった。ただ心地好い満足感が雛の感性を和らげていた。
 一方、みずうみは傍らに脱ぎ捨てられた衣服を拾い上げて、再び身につけながら雛のひとりごとに答えた。
 それは答えともいえないひとりごとであったが、確実に雛の言葉を追い詰めていた。
 「きみが本気なら、力着くで僕を“あっち”側へ奪い去ればいい。きみにすべてを遣い果たされて、僕は消えてしまっても、それでいいよ。僕はもう疲れたから、それでも少しも構わないよ」
 雛はその言葉の持つ本当の強さに少し驚いてみずうみを見つめた。
 みずうみは雛の鋭い視線から自分を引き剥がしたいと願ったのだろうか、また窓の外を眺めやった。
 そこではさっきまでの嵐さえどこかに消えていた。
 静止したまま。
 静止したまま。
 やがてあの荒野が見えた。
 この部屋の窓からはあの荒野が見渡せるのだ。そこは恐しく他愛もない異界に見えた。
 どこにでもありうる異界。不在と等価の存在。壊れたステレオ装置よ、高く鳴れ。

 「ねえ、きみがあの荒野に気付いたのはいつだった?」
 みずうみは放心したように窓の外の荒野に目を向けたまま、そう雛に尋ねた。
 みずうみの唐突な問いを受け止めて、雛は精一杯に記憶を手探りしながら答えを引きだそうとしたけれど、すぐには答えられなかった。
 「ええと、いつとははっきり思い出せない、不思議ね。でも、ここに越してきてからすぐにという訳ではなかったように思うわ。
 ある日、ある時、きっと夕暮れか、朝焼けの光のどちらかの中でだったと思う。濃いめのオレンジの光を背にして、有刺鉄線の向こうに根づいた背の高い草が微かな風に吹かれていて、その一瞬の光景がいまも私の瞼の裏に焼きついているわ。
 それは完全なタイミングで、完全な構図で、でも何事も伝えるところのない風景だったのよ。だからこそ、そのせいでその日がいつだったかはっきりと思い返せないのだと思うわ。
 オレンジ。
 そう、大事なのはそれがどこまでもオレンジであったことだわ」
 雛は懸命に記憶を確かめながら、呟くように唇から言葉を零した。

 「あのさ、きみはきっと信じないだろうし、その通り、まったくデタラメなんだろうけど、僕はあそこ、あの荒れ地の真ん中で産み落とされたんだよ。少なくとも僕の親はふたりとも揃って僕にそう言い聞かせてきたんだ。
 母親と、もうひとりのさえない男が僕をこの世に引きずりだしたんだ。さえない男というのは僕の取り敢えずの父親さ。取り敢えずって意味は、要するに<確かじゃない>ってことさ。僕の血と、彼の血との関係がさ。
 きっと荒野は僕と母親の血で少し汚れたと思うよ。
 枯れた蔦や芝なんかが全部、赤黒く染まったんだよ、きっと。
 でも、もちろん僕は生まれた日のことなんて何ひとつ覚えちゃいないし、何も見たわけじゃないけどね、僕の親はふたりともそう話していたよ。
 僕がその後、もう少し成長して色々と悪いことをするようになったらね、お前は“何でもないところ”で産み落とされたんだから、いつも大人しくじっとしていなくちゃならないって言うんだ」
 いたずらぶった笑顔を雛に返して、みずうみは“最初の神話”を開封した。
 その“神話”と呼ばれるものが、みずうみの請け負うとおりにでたらめなものかもしれないことは、雛だって、みずうみ本人だって、ふたりとも気付いていた。
 でもそのとき雛の鼻孔にはスープの上に浮いた香草の甘くて、苦い香りが蘇ってきた。
 寓話だ。おとぎ話としてなら信じていいのかもしれないなんて、雛は思った。

 みずうみの口から零れる“神話”なんて所詮、嘘。インチキ。でも不思議。少なくともやすい<つくりごと>ではないような気がして、彼の神話の世界にとても素直に入って行ける。
 雛の視界はゆっくりと滲んでいったけれど、それでも目の前のみずうみから視線を外そうとしなかった。
 雛はみずうみに向けて、おずおずと自分の両手を差し延べた。
 それは暗闇を流れる時間の渦を汲み取るのと同じような仕草だった。
 大いなる暗闇。
 奪い取りなさい、いますぐ、早く、速く、ねえ、わたしの手をとって、今夜はもっと一緒にいて、もっと一緒になって、激情が雛の喉をいま仄かに灼いている。

 不思議な儀式を交えた、奇妙な晩餐会は終わった。
 存分に相手の瞳の奥を見つめたあとで、探検に行きましょうよと雛はみずうみの腕を取った。雛のアパートメントを空にして、薄く浅い闇が降りてきた都市郊外の住宅地の夜道を、ふたりは手を繋いで歩いた。
 雛の家からさほど遠くない誰かの家の庭先には、無数の花が咲き溢れていた。
 白地に赤紫の模様の入ったその花々はとても芳しい匂いを立てていた。
 この花の名前は何て言うのと雛はみずうみに尋ねてみた。
 みずうみは、僕には分かりっこないよと素直に答えた。
 雛はその答えに少しだけがっかりした。
 「この花の名前を知っている人は、きっと素適な人なんでしょうね」
 雛は静かに呟いた。
 言葉は名もなき道端に掠れて消えていった。

 ここで手に入れられるものは所詮すべて神話の形を借りた記憶のかけらだ。
 だから文字の連なりを追いかけて何事かを手に入れようとするぼく、わたしの懸命な営為、その努力さえも、新たな、しかし実は古くから在るありきたりな神話を再生産するだけだろう。
 でも時代というぼく、わたしのものではない現実が、そこに副次的な文脈として働いていて、神話の、物語の背景を微妙に歪めてゆくことを、ぼく、わたしは密かに知っている。
 住宅地の誰か見知らぬ人の庭先に咲いている花々や、その光や影たちについて考えてみること。
 あるいは知らない家の茶の間から漏れるテレヴィジョンのノイズや、二階の窓から漏れ来る拙い演奏で弾かれたピアノの練習曲とか。
 礼儀正しく民法上の所有という地平から見れば、その花々も、その他のものもぼく、わたしのものではない。他の誰かさんのもの。
 それでも不思議とぼく、わたしはその花々に、その他のノイズに、自分の心象風景において欠かせない地位を与えている。
 眠りに就こうとする二〇分前、ベッドに転がって目を瞑る。すると温かなフラッシュバック。
 それは空白のような夕空に続いてゆくアスファルトの階段。
 その錆びついて塗装さえ剥げかかった手すり。
 すべて、ぼく、わたしが、自分史なんてものを横切ろうとするときの不安気な仕草の中で、何度も見つめ直して触れてみるものであり、ぼく、わたしはそれを<いま>とか、あるいはもっと大げさに、<世界>なんて呼んでいる。
 狭い住宅地の路地を抜けて広い往来に抜けると、幻から醒めたような錯覚に眩暈する。
 狭くて幾つもの細いさらなる路地が続いてゆくあの道で日々出会う風物こそ、古くから在るありきたりな神話形式に姿を借りたこの物語に、新しいフェイズを加えてゆくものの正体だ、なんて思う。
 少なくとも、それこそこの物語を新たに語り直さなくてはならない必要の正体なのだと信じて、ぼく、わたしは目の前の空白の原稿用紙や、記憶の隙間を埋めている。
 この島のあたらしい物語は、都市郊外から始まるんだ。
 そんなぼく、わたしの確信に実りあることを厚かましく祈ろうではないか、諸君。

 ふたりの足は、やがて車両が頻繁に行き交う喧騒の入り交じった表通りに辿り着いた。
 横断歩道の向こう岸には、いかにも模範的な真新しいコンビニエンス・ストアがある。その店を指差して、今夜は泊まっていってくれるんでしょ、だったら必要なものを買い揃えておきましょうよと雛は一息で言い切った。
 雛はみずうみの返事も待たないで自分勝手に結論を出していた。
 その一方でみずうみはいま自分が抗い難い波に足を掬われかけているのを感じていただろう。でも、雛の発言に異論を挟み込む余地など、すべてのものに遅れてしまう彼にはついに見つけられなかった。
 みずうみは雛の身勝手な行動に不器用な沈黙をもって同意するしかなかった。
 ふたりはコンビニエンス・ストアを目指して歩道を横切った。
 そのとき雛はみずうみの細い腕を一際きつく握りしめた。
 数秒後には、もはや後戻りのきかない岸辺をふたりは渡りきっていた。

 コンビニエンス・ストア。そこで手に入れられるものも日常というものを抽出した神話のかけらばかり。
 深夜に拳を擦り剥いたひとのために絆創膏が並べられている。
 不意に手紙で細やかな事情を説明する必要ができたひとのために便箋とボールペンが並んでいる。
 明日の穴馬に生活を賭けているひとのためには、競馬新聞とスポーツ紙が並んでいる。
 コンビニエンス・ストアには、様々なひとの必要を満たすためにたくさんの商品を並べられている。
 ぼく、わたしには必要がない、でも、他の誰かにとっては必要なのかもしれない。
 そこは様々なひとの日常の神話が、かけらになって溢れ返っている。
 そこは何処よりも世界という、物語の舞台の縮図を見事に示してくれている。

 コンビニエンス・ストアにゆくと、雛は何処か惚けたように品物をひとつずつ手に取ってみては、またそれをゆっくり棚に戻してみたりしていた。
 それが彼女のイマジンの仕草だった。

 雛は勢い良く店内に入っていった。店員たちの応対もそこそこ立派なものだった。
 そんな彼らに比べたら、みずうみの態度はひとりだけ少し気後れしているようだった。
 実を言えば、彼はそのとき自分の持ち金に自信がなかったのだ。
 そんなみずうみの心中もかまわずに、雛は的確に必要なものを次から次へと見定めていった。
 真新しい歯ブラシ一本、雛はみずうみの下着を少しばかり破いてしまっていたから、紳士用の下着一式、食後の軽いフルーツになりそうなもの、そして大量のアルコホル。
 買い物カゴは息つく間もなく一杯になってレジスターの前に運ばれていった。
 すくなくともみずうみにはそれらの時間はほんの一瞬のように感じられたはずだ。
 すべての品はこの必要の見本市の中から、雛とみずうみふたりにとって必要なものとして的確に選び取られたものばかりだった。
 おまけにすべての品代金は雛の財布から支払われた。精算のときにもそれが当たり前のことのように雛は顔色ひとつ変えなかった。ただ一言、申し訳なさそうに突立っているみずうみに向かって、これでいいのよと雛は優しく声を掛けた。
 みずうみは自分のための歯ブラシや下着の代金が、他人の財布の中から当然に支払われるのを不思議なものを見届けるような面持ちで見守っていた。
 そして自分はその「かわり」になるものを彼女のために与えなくてはならない役目を引き受けたのだと自分勝手に理解した。
 でも、それは雛にとっても正しい答えだったのだ。

 帰り道はすっかり暗くなっていて、所々で薄蒼い街灯が半径3メートル位の範囲を朧に照らしていた。そこにもまた新たな趣があった。
 蔭から漏れ来る見知らぬ家の茶の間の明かりや、若い家族たちのささやかな笑い声。ある時は楽しく、またある時は寂しいだろう風景が雛のアパートメントまで点々と続いていた。その間、ふたりは手を繋いだまま何も話さずに歩いた。
 たまに雛がいたずら気を起こして、見知らぬひとの家垣に足跡を付けて遊んだ。雛の体重が揺れるたびに、みずうみは片方の腕に抱えた買い物の荷物が溢れ出さないかどうか心配で堪らなかった。
 深夜になった。みずうみは雛の部屋で幾らかのアルコホルを腹の底までしまい込み、雛の予言どおり、もう自分の家に帰る気など失くしていた。
 その夜、ふたりは沢山の話をして、沢山の沈黙を置いた。部屋の窓からは街灯の青白い明かりがぼんやりと差し込んでいた。確信を硬く、強くするまでに必要な、少し長めの沈黙の後に、かなしみの源泉を探るように、注意深く慎重に、みずうみは雛の愛の在り処を求めた。

 いつだって正しく生きている愛は、両極に佇んでいるふたりの「あいだ」にある。
 そのとき時計が正確に時を刻むこの世界の営みは意識のどこか遠くに置き忘れ去られて、愛の刻むゆっくりとした時の流れが、「あいだ」とその両極にいるふたりを支配する。

 雛は立ち上がって、部屋を仄かに照らしていた白熱灯のスイッチを消して、再びみずうみのそばに肩を寄せて横たわった。
 さっきまでのアルコホルが呼吸となってふたりの顔と顔の間に吐き出されて、ふたりを囲む大気を俄に汚した。
 だというのに、その場所は不思議に清潔な、温かい泥の中のようになる。
 ふたりはその温かな泥の中を、ゆっくりと時間をかけてクロールした。
 ふたりは地上すれすれにきれいに絡み合って、ときには激しく相手の舌と唇を奪い合った。
 ねえ、そこにいる?
 きみは、あなたは、本当にそこにいる?
 ふたりは互いを相手に、何度もそのことを確かめたがった。
 ある一瞬、みずうみは光を見たような気がした。雛の体のきれいな稜線の向こうに、微かに希望を告げる光を見たような気がした。でもその次の瞬間、みずうみは直線を描くようにして果てて、雛の体の上に無様に倒れ込んだ。
 終わってしまったのだ。
 それでも雛は、自分の上に倒れ込んできたみずうみの顔、それも特にその両頬を、自分の熱く湿った両手で優しく包んであげた。いつまでも長い時間をかけて包んであげていた。
 相手のかなしみの所在を慎重に探り当てて、その場所を癒しの指遣いで優しく開き、そしてまた優しく塞いでみせる仕草。
 その間、ふたりは生きることに懸命だった。
 そして「あいだ」に何ものかを生み出す儀式に成功して、もとの正確で澱みのない時間が支配する闇の中へとふたりは無事に帰りついた。
 部屋の中は依然として薄蒼い闇の中にあり、きつく抱き合うふたりを飽くまでも柔らかく包み込む、ささやかで優しい宇宙になっていた。

 「Two Virgins」
 ジョンもヨーコも勿論ヴァージンなんかじゃなかった。あくまでもこの世界のとある真実のレベルでは。
 それでもふたりは手を繋いで珍しく不器用でぎこちない表情でファインダーを睨みながら、写真の中に収まった。
 その写真には「Two Virgins」という題名が与えられた。
「ふたりのヴァージンたち」
 それは嘘だ。ペテンだ。ナンセンスだ。この世界の無機質な議論のレベルでは。
 それでも、その言葉は正しくその日のふたりを表現していた。
 <あいだ>を潤おす薄くて白くきれいに濁るあの体液が、初めてふたりの間に流れたあの夜。ふたりのヴァージンたちだった。金色の天使、銀色の天使。
 そう、みずうみも雛も、決してヴァージンなんかじゃない。
 でもそれでもふたりは正しく「ヴァージン」なのだ。
  初めて「あいだ」が手に取れる程に確かなものに感じられたその日のふたりは、やはりヴァージンといって間違いではないのだろう。
 「Two Virgins」
 雛とみずうみ。
 ふたりは「ヴァージン」の夜を眠った。
 雛の眠りは深く平坦なものだった。
 みずうみの眠りは浅く、夜中に何度も断続的に目を覚ましてしまった。
 彼は自宅にいつもの睡眠薬を置いてきてしまったことを少し後悔した。
 目を覚ますと、そこにはいつでも青くて白い闇があって、ふたりでいるのに、必ずひとりぼっちの夜が開かれていることに彼は気付いた。それはとても悲しい事実のように思われた。そしてひとり、どこまでも深い夜を齧った。
 でもそこではかろうじて雛の規則的な寝息が、周囲の空間を梳かすように支配していた。それだけがさっきまでの愛の営為の名残りに感じられて、みずうみをほんの少しだけ安心させた。
 そうしてふたりの「ヴァージン」の夜は更け、神話の始まり、出会いの第一日目が消え入るように終わっていった。

           ☆かけらの、に、“熱はたかまる”☆

 消え入るものを何故そんなにも愛してしまうのだろう?

 みずうみは二週間に一度は精神科の待合室で自分の順番を待っていなくてはならなかった。
 固いマットレス式の椅子に座って、自分の診察の順番を根気強く待っていた。
 中々に繁盛していたその病院の待合時間は決して短くなく、その間にはときおり様々な騒動が引き起こされた。
 とりわけアルコホル依存症患者の予測しがたい振る舞いが、みずうみにとって脅威に感じられた。
 みずうみがおとなしく本を広げて佇んでいる側で、アルコホル依存症患者は無意味な独り言を繰り返していた。
 その独り言は大音量でありながら、誰に対しても向けられたものではなかったり、ときには正反対にすべての人々、いや全世界に対して向けられたりした。
 みずうみはその声を出来るだけ聞き流すようにと、意識を膝の上に置いた本の活字の羅列へと仕向けた。
 それでもアルコホル依存症患者の言葉には、どこか「叫び」に似た、ひとの心を根底から揺さぶる何かしらの力があって、ときにははっとさせられて、膝の上から視線を上げ、ことの成り行きを観察せざるをえなかった。
 順番が来ると、みずうみは腕のいい精神科医の前に座り、ここ二週間の行状を訥々と、そして極めて端的に語ってみせるのだった。記憶の糸をたぐりよせるように慎重に。
 それでも診察そのものの時間は当然に僅かなものだった。
 この病院はみずうみ以外にも他の多くの人々に信頼されていたので、不安神経症の、そして多少の鬱傾向の症例を持った一患者に過ぎないみずうみのために懸けられる時間はごく僅かだったのだ。
 みずうみはもっとしゃべりたかった。
 すべてをしゃべりつくしたかった。
 この世界の不安のすべてを。
 この世界を生き抜くことの不安のすべてを。
 でもそれは叶わぬことなのだとみずうみは最初から諦めていた。
 他者である医師が、それが仕事とはいえど、善意をもってみずうみのために時間を割いてくれることに対して、彼の胸のうちはすでに申し訳なさで一杯だったためでもあった。
 みずうみはその病院でたくさんの薬物を渡された。
 そうした薬のうちの大半は、遊びで薬を楽しむ連中たちにとっては宝の山のようなものだった。
 でも、みずうみはそんな連中に対してちょっとした嫌悪感を抱いていた。
 物事は、世界は、それほどイージーじゃないんだとみずうみは連中に言ってやりたかったんだろう。

 至福の酩酊をもたらすものさえ、ときにはそれほどイージーじゃない。
 たとえばその中のある薬には抜群の催眠効果を持つものがある。でもそのかわりにその薬は呑み込む最中だけでなく、服用後のまる一日、口の中に奇妙な苦みが残り続けるのだった。水道水さえ苦くて堪らないのだ。その感覚はあまりいい気持ちのものではない。むしろ水を口にする度に生きていることを自覚させられて、気が滅入るものだった。
 口中一杯に広がる微かで、しかし頑固な苦み。そのことと、この世界を生き抜くことの正体との相関について。

 みずうみは二週間に一度、その病院に足を運ばなくてはならない。その「二週間」という時間が、みずうみにとっては新たな、そしてきりのない心配事のひとつだった。
 何故か?
 その病院は患者に四週間分の薬を一度に渡すことだってできる。
 では、何故にみずうみの診察は二週間に一回行わなければならないのだろうか?
 「自殺」?
 あるいはその危険性?
 それがみずうみの脳裏に真先に浮かぶ、薄蒼いキイワードだった。

 たとえば高層ビルの窓ガラスが、やけに白けた空に向かって開かれているところ。
 そして空中への勇猛果敢なダイブ。

 それはみずうみにとって古くからの親しい友人のような映像だった。
 そして、その観念はみずうみの脳内のなかで危険で、しかし滑稽な時限爆弾のように、爆発の瞬間までのはかない時間を刻み続けていた。
 生きていたいのに、生き残っていたいのに、高いビルの一室から飛び出したときのあまりにも真っ白な街並みとその視覚が彼の思考を覆った。

 怖いほどに大きな太陽が沈んでゆく。僕はもう追いつけないんだね。

 出会いの二日目の日中、ふたりは熱く愛し合うためだけに時間を喰い潰した。
 部屋の中の湿度はふたりの肌の温もりが触れ合うたびにどこまでも上昇し続けた。
 気がつけばいつの間にかふたりに夕暮れが訪れていた。
 みずうみは住宅地の屋根つたいの地平に掠れてゆく太陽を眺めながら、その行方を嘆いて、ひとり呟いた。
 僕はもう追いつけないんだねって。
 雛はその言葉を何とはなしに聞き流すことに決めた。
 愛し合っていたときのみずうみは無敵のギャングのようにとても強そうだったから、いまは子供のような嘆きの言葉は、聞き流してしまおうと決めた。
 誰だって、雛にだって、太陽の行方を追い続けることはできないって思ったから。

 みずうみは嘆きの言葉を部屋の床に残すと、靴を履くために玄関に向かった。
 そのときになって、雛は初めて口を開いた。
 何処に行くの? 帰ってしまう気なの? 心配になった雛は一息で質問した。
 みずうみはそんな雛の焦りに少し戸惑ってしまった。
 そう、雛のいうとおり、みずうみは自分の家に帰るつもりだった。
 まだその時点までなら、彼にだって帰るべき家があったのだ。
 「ああ、僕はもう長く居すぎてしまったからね」
 みずうみは何の疑念もなくそう口にしたけれど、みずうみのその選択は雛にとってはまったく、当然のことには思えなかった。
 雛は俄に取り乱した。もはや自分を忘れていた。
 「あんなに熱かったのに、あんなに熱かったのよ。ねえ、もうすこし、いいえ、ずうっと此処にいていいのよ、あなたなら」
 そして雛はすぐさまみずうみのそばに詰め寄って、さっきまでのように唇でみずうみの次の言葉を塞いでしまった。
 運命。抗い難い波のようなものが再び勝利する。
 ふたりは雛の部屋の玄関先に倒れ込みながら、ぬかるみのような夕暮れの終わりに崩れ落ちて重なった。

 ぬかるみに足を取られてしまったみたいだ。
 少しだけ足を上げて、前に進もうとする。
 けれどもぬかるみは易く僕を放しはしない。
 泳ぐよりも、静かに浮かんでいようと思う。
 柔らかい子宮の中の記憶がふと蘇る。ならばずっと此処で眠っていよう。
 吸い込まれてゆくようだ、余りにも温かいぬかるみに。

 愛に凝縮されたかのように二週間が過ぎた。そしてついにみずうみは自分のアパートメントを引き払うことに決めた。
 余分な家具などは可能な限り処分され、本と愛すべき僅かな小物たちだけが雛の部屋に運び込まれた。
 雛の創作人生の短い夏である、「みずうみの時代」は、そうしていまようやく準備された。

 大切な魂の天分が開かれるとき、あたりには芳熟した大気が漂い始め、良い行いがその発現を待っている。
 雛はいま目の前に準備された素材、みずうみから、彼のそのすべての悲しみを引きずり出して、文字に結晶させようと考えていた。
 これからしばらくの間、あるいはもっと長く、自分のライフ・ワークとしてこの男を描き続けようと思った。
 一日が始まるとまずは温かい朝食を準備し、それが済むと眠りの封印を解くようにみずうみを起こした。みずうみの眠りはケミカルな物質でしつらえたものであり、中々外の世界に溶け出さなかったけれど、彼が正気を取り戻すまで、テーブルに肘をついて雛は待ち続けた。
 素晴らしい朝食が終わると、まだケミカルな物質の体内反応と闘っているみずうみを素材にして、雛は何枚ものスケッチを書き上げた。
 一見、ひよわそうながらも、この男の内には、触れると熱いものが流れていることに、雛は少しずつ気付き始めていた。誰にも触れられない凶暴な炎のようなものが、密かにその出番を探して虎視眈々としている、その表情を見逃さない。そのために雛はスケッチを続けた。
 そうして吐き出された膨大なスケッチは、雛の壮大な天分を存分に思い起こさせずにはいないものであり、その一方でみずうみのモデルとしての資質も確かに感じさせるものだった。

 一定量のスケッチが溜まると雛はそれをきちんとした作品に仕上げることに没頭した。
 大作もあれば小品もあった。どの作品にも差別なく、雛は自分の感性と集中力を注いだ。
 だから、どの作品にも獰猛さを隠しながらも、世界を前に震えている男の矛盾した姿が、雛の繊細な筆致によって表現されていた。

 ただそれでも雛は「食うための」文字と自嘲気味に呼んでいた、顧客相手の好みに合わせて仕上げた作品もこれまでの注文数と変わらず、以前と同様にこなしていた。
 生きて暮らしてゆくには仕様がないことなのと、そのことを雛はみずうみに弁解するように告白した。
 「そんなこと弁解する必要なんて何処にもないんだよ」
 そう言ってあげたら、雛は安心したかのようにみずうみの胸に頭を凭れた。

 順調に仕事を進める雛に比べて、みずうみは朝から雛のモデルを所在なく無様にこなすだけで、その他に定職と呼ぶべきものを持ってない彼の心中には、どうしようもない焦りが生まれ始めていた。
 実際にはみずうみをモデルとした雛の作品は、芸術界のどこでも高い評価を得るとともに、その資産的価値さえ増し始めていた。だから雛の専属モデルこそ彼の定職といっても良かったはずなのだけれど、彼の内心ではそんなことでは一向に満足を得られないでいた。
 焦燥感。自分の獰猛さをおもてに発現できないことの悲しみ。
 そんな日々の中で、みずうみはとある職業に興味を持ち始めた。
 その職業はその在り方そのものが、その人物の生き方と一致する稀な職種といえた。
 みずうみが目をつけたその職業こそ、ギャングであった。
 彼らの生は時には職業と切り結び、ときには生き方そのものと交錯していた。
 その在り方がみずうみにはとても魅力的に思えた。
 自分の内なる獰猛さを肝心な瞬間だけに集中して炸裂させる仕事、ギャング。
 「ギャングになりたい」
 みずうみは日々を追うごとに、稚拙な想像に捕らわれていった。

 出会いから二六日目を境目にして、みずうみは雛の部屋に届けられる朝、夕の新聞の紙面から、ギャングたちに関する記事を抜き出しては、それをまとめてファイルに収めるようになった。
 みずうみは社会面の記事に関わらず地方版の記事まで隈なく捜しまわり、ギャングたちが自分を出し抜いて、いま何をしているのかを知ろうと願って、細かな活字を追い続けた。
 そうしてギャングたちの動向を伝える記事に出会うと、彼はそれを専用のファイルに切り貼りして満足した。
 そんな動作を日々休むことなく続けるのだった。

 みずうみの「ギャング・ファイル」がひとつのコレクションと呼べるほどの分量となる頃になると、そのファイルは現代について何事かを語り始めた。
 みずうみはまず自分が思い浮かべていた古き良き時代のギャングたちは、もはや絶滅しかけていることに気付かされた。少なくともこの島国の中では。
 国際面の片隅にはまだ時折、勇猛なギャングたちの行状が書かれていることもあったけれど、もうこの国の中では比較的に稀であった。
 大量の札束を積んだ現金輸送車が奪われたならば、その記事は必ず第一面を飾るのがこの島国だった。
 でもその頻度は比較的に稀であって、また必ずしも颯爽としたギャングたちの姿を伝えていてくれているとは限らなかった。
 みずうみの心のうちでは、誰よりもスタイリッシュされている人間はギャングたちだったはずなのに、現代の、実際の彼らはあまり恰好良い存在には思われなかった。
 みずうみはそこに古典型ギャングと現代型ギャングとの違いを見出した。自分が当初、心に思い描いていたギャングたちは古典型のギャングたちであり、今日を闊歩しているのは現代型のギャングたちだった。
 みずうみは「ギャング・ファイル」に収めた記事を洗い直し、現代型のギャングを伝える記事を水色の水性マーカーで縁取って、古典型のギャングを伝える記事には水色の補色にあたるオレンジの水性マーカーで縁取りを加えた。

 K区で一二日未明、深夜のひとけのないコンビニエンス・ストアを複数の覆面ギャングたちが襲い、レジ内にあった現金約十二万円を奪って逃走した。襲われた店員の証言によると犯人たちは二人組で、角材のようなものを手にして店員を数回殴打して脅したあげくレジを開けさせると、そこにある金をすべて鷲掴みにして店を後にしたという。犯行の一部始終は防犯カメラに収められており、警察は記録されたビデオテープの解析に当たり、犯人の割り出しに全力を上げている。

 みずうみは地方版の片隅に書かれたこの記事のギャングたちを現代型のギャングに分類し、水色の水性マーカーで縁取りを添えた。

 Y市で白昼に現金輸送車が何者かにより襲撃された。犯人は手にしていた拳銃らしきものをかざし、輸送車を止めさせ、中にいた運転手を車の外に出させると、そのまま車に乗り込み市の南東の方面に向けて車を走らせた。その後の警察の調べによるとこの車は市の南部で発見されたが現金を積んだトランクは既に奪われた後だったという。被害総額は約一億七千万円にのぼると発表された。犯人のその後の行方は現時点では不明である。尚、襲われた現金輸送車の運転手は怪我を負うこともなく無事であるという(関係記事一四、一五面)。

 その日の夕刊の第一面を飾ったこの記事をみずうみは深く迷ったあげく、とりあえず古典型のギャングに分類した。その第一の要因は犯行が白昼堂々に起こされたからであり、第二にはこの犯行が誰にも傷ひとつ与えずに終わったからである。だからこの記事にはオレンジの縁取りが施された。

 みずうみは現代型と古典型、ふたつの類型のうち、古典型のギャングたちの方に断然、興味を示した。それは第一に事件の被害総額が実生活と関わらないような、もはや形而上学的な数字であるためであり、第二に犯行そのものが一種の優雅な芝居のように思えるためであった。
 これに反して現代型のギャングたちの稼ぐ額には限界があった。その額はコンビニエンス・ストアのその日の売上によって限界付けられていた。
 そして何よりみずうみが嫌ったことは、現代型のギャングの行状は古典型ギャングの振る舞いの悪質な模倣である点であった。
 それはみずうみにとって見れば、ギャングそのものの地位を足元から危うくする行為に思えてならなかった。
 そうして、みずうみは溜まった「ギャング・ファイル」を孤独に顧みながら、薄闇の中で密かに蠢くのだ。

 世界はうすら笑いを浮かべながら、それでも確かに僕の出番を待っている。

          ☆かけらの、さん、“追憶のかさなり”☆

 都会が雨に沈み、夏が近づき始めた。
 「ギャング・ファイル」が大分冊と呼べるほどまでに成長し始めたその頃から、日々を追うごとに、みずうみの精神風景は歪み始めた。
 最初は捉えがたい変化だった。雛でさえ気付かなかったほどの感性の僅かな変調に過ぎなかった。
 それでも、みずうみは“外の世界”で何事かを探し始めようと懸命になるうちに、少しずつ色のない世界、この現代を生き始めている自分を発見してしまったのだ。いまこそ振り返れば、この頃の生活こそ、みずうみ自身の時限爆弾の秒針。その動きを僅かながら早めさせたものだと気付かずにはいられない。
 のちに雛も、ああ、そうだったのかって思うようになる。その仕草は哀しげだった。
 きっと自分がみずうみを見捨ててしまった、もしくは見失っていたのではないかという後悔が、彼女を傷めたのだろう。
 でも、と雛は思う。アタシの景色が狂い始めたのも、丁度、あの頃だったのよ。

 簡単な祈りを済ませてから、郊外住宅地に隠された扉を開けて、まぶしい通りへと降り立つ。しかしその僅かな一瞬を狙って即座に視界へと雪崩込んで来る光景は、戦場かと疑うほどに怖い。
 いつものこの街、平凡に埋もれていたはずのこの街が、今日は少し怖い。
 なにかが起きそうな予感がする。
 この街のさらなる向こう。Y市の中心部では過剰な色が街々を覆い、遠くに立ち並ぶ高層建築の狭間に走る狭い路地は、どこも悪臭と汚物に満ち溢れているように見える。
 視界に飛び込む総ての異物が、いまは走査線の向こうに在るかのように、足元から遙かに遠い。
 誰かがこの世界を砂漠と名付けてくれるなら、どれほど開き直れることだろう。
 喘いでいる。
 確かに喘いでいる。
 言葉が強固な異物のように咽喉元にひっかかったまま何事も伝えきれずに、今日も後悔の内側に深く開けた虚空の内へと、焼けただれた胃壁の突起を過酷な熱気を帯びて刺激している。
 ゆっくり、ゆっくりと時間を掛けて償いきれない罪が、瞳孔の内側から理由のない涙となって静かに染み出して来る。
 どうして、ここにて、こうしているのだろうかと、自分に向かって問う。
 日差しが眩しい。
 何処にいても居場所がない、そうしたいたたまれない気持ちが緩やかな眩暈を誘う。
 思考は緩慢な弧を辿る。
 遠い。
 いまは何もかもが遠い。
 ここは極点なんだ。
 ここは確かに生の極点なのだろう。
 そう願わずにはいられない。
 だからどうか許してほしい。
 誰か、ぼく、わたしを許してほしい。
 そうすればぼく、わたしは救われるのに。
 か細い祈りが続く。

 「空白に降りてゆき、そこにひかりを充たしなさい。
 あなたの痛みの在り処を手探りするように、しっかりと時間をかけて選んだ色だけをそこに埋めてご覧なさい。
 そのときこそ追憶はあなたに語りかけるでしょう。
 あなたの思惑が誠実であるほど、追憶はあなたに多くを語りかけてくることでしょう。
 忘れていた何事かを、時の浸食から救い出すために回復を願って、追憶はあなたを内側から叩くのです」

 扉を開けて、路上に着地。
 そしてみずうみは歩いた。
 中天に高く、止まったままの太陽を恨んで、路地に口を開けた、陽陰と陽陰をひとつに切り結ぶように、みずうみは歩いた。
 今日は曙光のうちから、すべてが厳しく灼かれていたほどなので、昼間の日差しは尚更、耐えがたいものとなっていた。しかし、いやだからこそ、今日は偶然に見つけた風景さえもが完璧な輝きを帯びて、彼の網膜の裏側に静止していた。
 他人の家の上等な石に掘られた表札。
 アスファルトの切れ目に少しだけ開けた砂地に散りばめられたガラス質の鉱石。
 翳りに身を隠した樹皮の突起と、葉脈のか細い窪み。
 まぶしい世界を前にして、みずうみは何もなすことを見つけられずにいた。
 誰ひとりとして通うものがいない路地を行くと、それぞれに姿形の違った住宅たちが雑然と連なってゆく、ふとした別れ道が彼の視界の隅を掠めた。
 そんなときみずうみはこの先一生出会うことのない人々の生活を想像してみようとした。
 退屈だったから。
 それでもみずうみの脳内キャンバスに浮かぶものは、それぞれの家の窓枠に敷かれたカーテンの向こうから、僅かに漏れる照明や、茶の間に響くテレヴィジョンのノイズなど、およそ僕のものでもあって、誰しものものでもある、そんな貧弱な光景でしかなかった。
 そのときにはもうみずうみの内側に流れる水脈は少しずつ枯れ始めていた。
 まず想像力が萎え始めた。
 彼は自分の生の外側にあるものは何ひとつ綿密な想像をすることが出来ない程までに鈍感になっていた。
 それでもみずうみは自分のプールを干上がらせたままで、何もなす術もないままでいたのだ。
 再び、似通った住宅に囲まれた通りを行くけれど、誰ひとりとして一向に擦れ違うものがいない。
 既に見た今日。
 記憶の中でか?
 想像力の中でか?
 夢か?
 既に見た今日。
 それが倦怠にしっかりと居座った都市郊外の白昼の真実なのだ。
 まぶしい日差しに滞る思考の流れを踏みながら行く。
 足踏みする今日。
 しかし幾つかの勾配が繰り返される狭い路地を抜けた割と開けた通りに出たところで、誰かのか細い声が唐突にみずうみを叩いた。
 聞こえてくる。
 目の前のまぶしい現実からではなく翳りに沈んだ薄闇の領域から、沈黙する曇天の日の海。あの控えめで、さざ波に似た、ごく微かな声が、耳なりが、みずうみの脳髄にその荷を任せるような親密な囁きをもらす。

 「密かな痛みを手探りして、空白へと降りてゆきなさい。あなたにその勇気があるのなら」

 誰かがみずうみに問い掛けている。
 振り向いても、左右を見渡してみても、その声の主など見当たらないのだが、忘れてしまった遠い記憶の淵から、途絶えがちな音となって、女の声が響いて来る。
 記憶とうつつの狭間の朧な領域。みずうみはそこに忘れてしまった彼自身と「彼女」を幽閉してしまったきりでいる。そのことを誰かがみずうみに伝えきろうとしている。
 決着を先送りしてしまったきり、殺してしまったままの自分を、あのコを、今こそ回復しなければいけないと、尽きせぬ追憶が激しくみずうみを叩いている。
 回復せよ、回復せよ、回復せよ、世界よ。そして静かな祈りとともに在れ、と。

 消せない記憶のかけらたちが、ぼく、わたしの追憶の中で、洪水する色となって溢れ出したそのときから、ぼく、わたしの現実はゆっくりと色を失くし始めた。
 フィルターの向こうに霞んでしまった世界を、それでもなんとか見届けようとする努力が、ぼく、わたしに頑固な頭痛をもたらす。
 ひかりは大粒の粒子のようであり、色彩は形の上に不器用に貼られているうわずみのようなものに過ぎない。
 痛みが内側から、ぼく、わたしを突く。
 そしてまたひとつずつ、世界から色彩が奪われてゆくのを、いまのぼく、わたしは微かな痛みを秘めた諦めの視線で、ただただ見送るほかにない。

 薄暗い部屋にオレンジの灯りが満ちている。
 見たことがある部屋。見たこともない部屋。どちらでもない。その、何処であるとも特定できない場所から、誰かが僕に懸命な囁きを送っている。
 そんな頑固な妄想が、何もかもまぶしさに落ち着いていたその一瞬から、意識の前面に貼りついたまま、一向にみずうみの元を去らなかった。
 その囁きをつなぎ止めておくことこそ、目下の僕の仕事なのだとみずうみは密かに思った。
 視界を逃れてゆく様々な後悔。
 そいつの正体を見定めて密かにつなぎ止めようと思った。
 その痛み、その孤独。
 遠く離れたもの同士の深い理解。
 そこから救済を求めるか細い声が聞こえてくるから、その声が果たして誰のものなのか僕は聞き遂げなければならないのだと、やがて翳りゆく街並みを行きながらみずうみは祈った。
 乗客の疎らな列車に乗ってY市の中心部へと向かう。
 シティに近づくにつれて都市の喧騒が絶えずみずうみの鼓膜を脅かし始める。
 それでもみずうみの鼓膜から「彼女」の囁きは鳴り止むことがなかった。
 そのことを確認すると、みずうみの不確かな決意は少しずつ確信に成長し始めた。

 「愛しているんだ、つまり。
 僕はいつまでも、いまの、負けたままの僕じゃないよ。
 だから、きみだけはきっと待っていてくれるよね」

 そしてみずうみは気がついた。
 覚醒した。
 いま僕はゆっくりと世界を開こうとしている。
 みずうみはひとり目を閉じて、心のうちでとある言葉を復唱した。
 世界は僕の出番を待っている、世界は僕の出番を待っている、と。

 この頃、雛は昼間でも部屋中の窓という窓に分厚いカーテンをしき、擬似的な暗闇を作り上げては、創作に没頭していた。
 そのとき、その薄闇はひとつの装置だった。
 遠い追憶と<いま>を通わせることの出来るそれは、見事な装置だった。

 目の前の薄闇に向けて、ぼく、わたしはゆっくりと手を伸ばす。
 いまのぼく、わたしは光に照らされたあらゆるものが怖い。
 遠い日の闇の、親密さに満ちたあの微熱が、過酷な光にあてられて、少しずつ少しずつ色を失ってゆきそうで、そのことがとても怖い。
 何事かを伝えようとする唯ひとつの章句が、途切れ途切れの祈りとなって、ぼく、わたしの胸元を虚しく掻き乱す。
 ここにいるのに、ぼくは、わたしはここにいる。ここにいるのに、ぼくは、わたしはここにいるのに。
 背骨をゆっくりと伸ばし、深く息を吐き出しながら、静かに瞼を閉じて、大丈夫、大丈夫、と自分に向けて囁き続ける。

 雛は昼間も夜もすべての窓をカーテンで覆って、一日をやり過ごすコツを身につけた。
 眠りの前には<リアリティ>を数錠だけ噛み締めて、アルコホルとともに飲み下した。
 そうして夜の闇が引き潮のように遠くなり、未明の太陽が空に白く霞むような光を溶き流す頃になって、彼女はようやく眠りにつく。

 都市郊外の街並み、ぼくらの荒野がオレンジに沈むとき。
 ぼく、わたしは考える。何事かを。きみもそうだったら、ありがとう、うれしい。

 シティはやはり汚物に塗れていた。
 とてもこんな所に長くは居られない。居たくない。
 だから帰ろう。峠の我が家へ。
 みずうみはシティでも居場所が見つけられない。
 私鉄に揺られて、郊外の峠の我が家を再び目指す。
つい先程まで、路上に流れ落ちた俄か雨が、みずうみの咽喉元を濡らすように、夕暮れの大気の中へと干上がってゆく。
 昼の盛りには焼け爛れていたアスファルトの上を、いまはかげろうを静かに揺らす風が流れる。
 今日は夢と現実の区別など、なし崩しにしてゆくがいい。
 日差しが昼間の自分の権勢を後悔するかのように、ゆっくりと心地好く掠れてゆく間、みずうみは長めに延びた自分の影を眺めている。
 いまの僕は特別に幸せでも不幸せでもない。
 物語の起点にも終点にもなりえない。
 「ギャングになりたい」は、「ギャングにならなくちゃいけない」に変わってしまった。
 僕はまずそのことを引き受けるところから始めてみなくてはならないのだと自分に言い聞かせてみる。みずうみ自身にその用意があるのかは彼自身にだっていまはまだ分からないのだけれど。
 斑模様に濡れた路上に長く延びた自分の影を踏む。
 平坦な光景が続く都市郊外の住宅地が、つかのま夕暮れの奇跡に照るのを、あたかも自分の誇りのように見つめてみる。だってその一瞬こそ今日の事件だから。その一瞬こそ、捜し物の途中のみずうみにとっては今日一番の出来事だったから。
 太陽が刻々と傾斜角度を変えながら、峠の住宅地の淵に溶けてゆく。
 くすんでゆく朱色と、忍び寄る闇に密かに流れ込む深い藍色が、にわかに虚空に対峙する。
 誰かの家の庭先から零れる木の葉が、もの言わずに静止する。
 長く延びたみずうみの影が、誰かの家の石垣に触れている。
 こうした風景にはおよそ彼以外の誰ひとりの影も見当たらない。
 おそらくここからは何事も始まらない。そう思い込んでいた。
 何事も起こらない大気の中に、いつの間にか僕は深く座り込んでしまっていた。
 ギャングになりさえすれば、僕はここを抜け出せる。
 物分かりのいい精神科医と向かい合っているときのように、彼は注意深く自分の水脈を探り当てる。
 ギャングにならなきゃ。
 自分自身の奥底にしっかりと澱んだ不思議な<流れ>が、僅かに変わったことを手探りで確認する。
 僕は、僕をギャングにする。
 これまで未明の暗闇の中を行方もなく漂っていただけの無力な思慮が、いま目指すところを見つけた。
 みずうみは彼自身の内なる水脈の、あたらしい手応えを測る。
 「回復せよ、回復せよ、回復せよ、世界よ」
 過酷な渇きの中で、か細い単調な祈りを繰り返し、繰り返し唱え続ける。
 夕闇に長く延びた自らの影をひとり踏む。
 ところでそのことについて雛はどう思っているのだろうかとみずうみは考える。

 深夜の未明の淵で、ひとり密かに回想する追憶のすべてが、ぼく、わたし自身を解く鍵なのだと思い当たるときがある。
 いま、ぼく、わたしは空白の紙片に向かっている。しかし書き残すべき何事かをいまのぼく、わたしはどれほど持ち合わせているのかと、過去と現在が鋭い問いを投げ掛けて来る。
 きっと本当のぼく、わたしは何も書きたくなどないのだと思う。
 書くこととは、考えることと同じ作業だ。
 ゆっくりと透き通らせた言葉や文字は、濾過されてグラスの中を充たしている幾らかのぼく、わたしの思いや発見だ。
 でも、いまのぼく、わたしは多分何事も発見したくないのです。
 分かるよね?
 ぼく、わたしの生はきみの生に似ていて、いつまでも未完成。ぼく、わたしは、あたかも“ひと”のようにいつまでも未解決の論争の直中で揺れている。
 “いま”という一瞬は次々に過去へと雪崩込んでゆく。
 同時にぼく、わたしも、次々に自分を遣い果たし、遣い果たされたぼく、わたしのかけらは、過去へと捨て置かれてしまう。
 ぼく、わたしを捕まえようとすると、一瞬から一瞬へと逃げ行く過去を追いかけてゆくというあまりに不安定な作業をしなくてはならない。
 だからきっとぼく、わたしは自分というものの<いま>を知らない。
 そのことを不安に思いだすと、同心円が際限なくぼく、わたしを閉じてしまう。いや、そのことに気付いてしまう。
 書き残しておくべきこと。
 書き残しておくべきこと。
 ぼく、わたしはそれでも眠りの時間を擦り減らしてまで、懸命な手探りを続けてしまう。救われもしないのに。滑稽なのに。
 掠れ行く言葉を追いかけているのですね。
 掠れてゆくものとは、実はぼく、わたしであることを知ってしまったから。
 掠れ行くものは、しっかりと存在し、少なくとも呼吸だけは止めていなかったはずの、ほんの数秒前のぼく、わたしだから。そうして次々に消えてしまう行方不明のぼく、わたしを、例え鈍重な身振りに見えようとも、追いかけてゆかずにはいられない。
 不思議なことにそうした過酷な検証に耐え、獲得されたごく僅かな字数の言葉や文字たちは、ぼく、わたしにとって祈りのように響いて止みません。
 最小限の字数でも、とりあえずぼく、わたしの“いま”を説明するために鳴ってくれた言葉や文字たち。
 希求を知らせる言葉は状況が過酷であるほどに短く簡潔に発っせられるようです。
 どんなに短い文句であれ、何かしらの言葉がわたしのために鳴ってくれたこと、それはきっと救いなのだと、ぼく、わたしは自分に言い聞かせる。
 そうして何とか言葉や文字を満足した“形”に残せた後は、ただゆっくりと眠りたくなる。眠りこそ忘却の温床であることを知っていても、またそのことが先程までの懸命な回復と回想の作業と極めて矛盾しているにしても、ゆっくりと、深く眠りたくなる。
 そうしてぼく、わたしはまた“いま”を忘れてしまうことでしょう。
 でもそれも仕方がないことです。何もかも、すべてが拙い生の正体だから。
 
 癒しを求める熱や祈り。
 自分を忘れられるように、と雛は目を閉じた。
 切れ切れの断片へと、虚空に掠れて消えてゆく様々な後悔、そのすべてが彼女自身のかけらだから、そこに、何かしら忘却と時の経過から救い出すべきものがあるはずだと直観するとき、雛は空白の画面を破格な記憶の断片でひとつひとつ埋め直そうと努力した。
 緩やかな昇り坂が繰り返される、誰ひとり通わぬ帰り道を、背中を丸めて歩くみずうみを思い浮かべた。夕闇に流れ込む遠くのネオンが、汚泥に浮かぶ油膜のきらめきのように、煤けた空を灼くだろうと想像した。
 呼吸を整えて再び家へと向かい始めた頃には、一切が無関係に思えてしまう、あの紅いひかりの中で、みずうみが息を切らしている。
 奥まった路地に僅かに与えられたモーテルのサイン。
 窒息の中で目を閉じて眠った白熱灯のプール。
 画面いっぱいに洪水するだろう、鮮やかなオレンジ。
 そのすべてが<いま>のかけらだから、雛は空白に降りて、密かにひかりを充たす。

みずうみが今日一日かけて見つけだしたものは都市郊外のありきたりな風景のかけらと、奇妙なおんなの囁き声だけだった。
 みずうみは自分の手元に銀行を襲う拳銃の代わりに、そんな手に掴めないものばかりしかないことに眩暈を催した。
 そうして時限爆弾の時限は少しだけ短縮した。
 生きるたびに時間とともに何事かを遣い果たしてしまう、それがみずうみの生だった。
 みずうみがおずおずと部屋に戻ると、雛がキャンバスの前で泣いていた。
 驚いて近づくみずうみに向けて、大丈夫よ、と雛は囁いて、みずうみの動きを制した。
 雛の目前のキャンバスには文字が書かれていた。
 雛の<みずうみの時代>の唯一のセルフ・ポートレイト。

 「いま、、、わたし、、」

 それはいまにも消え入ってしまいそうな筆致で書かれた文字たち。追憶といまを結びつける余りにもか細い糸としての文字たちだった。

 捕まえられない、逃げてゆくから。少しずつ掠れてしまう微熱。さっきまでのぼく、わたしが残した微熱。かつてはふたりしっかりと繋がれていたはずの、てのひらの微熱の名残り。

 「粒子の荒いビデオテープの中で、深夜の病院の待合室のように陰りにくすんだガード下の通路を、ゆっくりふらつきながらこちらへ向かって歩いて来る女を見た。黒いロングコートの下には、下着だけしか着ていない。蛍光灯の平坦な光に照らされて、彼女の素肌は水にふやけてしまったかのように、薄蒼く白い。しかし彼女の存在感はカメラに近づくに連れて、一種の強烈さを孕んでクローズアップされる。時の経過とともに、彼女には深く読み込むべき何事かを携えていることに気付かされずにはいられなくなる。女優の名前は金城なつき。恐らくそれは彼女自身の生まれながらの本名ではありえない。何処までが、あるいはビデオの中での彼女の、どの部分が、虚空から虚構を掴みとり体現しようとする女優の姿であり、どの部分が生きた、そしておそらくはあり触れた本名を持つ彼女自身の生身の姿であるのか、わたしには俄に判断を下すことが出来ない。それでも最初にわたしを釘付けにしたものは、一向に定まらない彼女自身の視線の奥深く濁って光る艶と、その虚しい行先だった。その視線に映っているものを、かつてのわたしも見たことがあるような気がして、そのとき密かに動揺した。それはおそらくあの離人症の風景ではないかと。ハレーションに膨れ上がった白いひかりの洪水の中を溺れながら歩き続けるものだけが見る風景。顔面を覆い隠す病の仮面の微かなひび割れから、かつての彼女の、ひとのかけらが、唐突な笑みとなって零れ出す度に、見るものの記憶の底から、様々な不安が増殖されて呼び起こされてしまう。痛みと慈しみ。痛いからこそ多くをさらけ出して自らを慈しむ、彼女の跳躍。不思議なことに、彼女が呼び覚ます記憶はすべてそれを見ているわたし自身の記憶でもあった。遠い日の記憶に溶かしてしまったきり、忘れかけていたわたしに、再び出会ったのだと思った。ビデオ・テープの中で彼女はそれなりに過酷な自分の人生を淡々と語っていた。それは確かに振り返りがたい過去であった。父親との確執。薬がもたらす束の間の高揚の中で体を売った日々。でも、それでも、わたしを引きつけて止まない彼女とは、決して過去の彼女だけではではないはずだと直観せずにいられない。彼女の生は、今でも不吉に細いロープの上を辛うじて渡っている。そうした彼女の現在こそ、画面に張り詰めた緊張の根拠なのだろうと思わずにいられない。ふとした一瞬、いまはモニター画面の粗い粒子の結晶でしかない彼女に、いつかわたしは会いにゆくかも知れないという予感が、わたしを突いた。孤独は、また孤独と出会わなくてはならない。蛍光灯の冷たい光に照らされた白い肌とハレーションの洪水。彼女の、おんなが、ハレーションを起こし、洪水を来たしているということ。彼女が見たものをかってのわたしも見た気がするから、彼女が彼女自身を包み込んでいる、一向に破られることのない緊張という薄い膜に、この手で触れてみたいという欲望に、わたしは灼かれてしまった。
 彼女も負け続けて、自分を遣い果たしながら生きている。
 さっきまで、そんなまぼろしを見てたの」
 雛はまだ夢に焼かれているように、トランスしたまま、行く宛てのない話を、帰ってきたばかりのみずうみにした。トランスしたまま。
 「いま、、、わたし、、」
 キャンバスに書かれた文字に、みずうみは震えた。
 「僕も同じ夢を今夜見るよ」
 みずうみはそう零して、雛を抱きしめた。
 痛い。
 痛かったのは、抱きしめられた雛ではなかった。
 痛かったのは、抱きしめたみずうみの方だった。
 お祈り。
 回復せよ、世界よ、とみずうみは小さく呟いてみた。
 彼自身と雛のために、そして名前しか分からない哀れな女優のために、その祈りは漆黒の闇に吸い込まれるように、掠れた音を響かせた。

 記憶を開き、記憶を閉じる。遠くを見つめながら、ゆっくりと目を閉じてみる。
 月の銀と、停滞する生の沈黙。
 ゆめうつつの風景。そのまどろみを歩いていたひとりの女。
 雛が見たまぼろしの女。
 離人症患者の風景。どこか遠くにいるひとの追憶という仕草が、そのときの雛の<いま>に向けて、忘れてしまった何事かをいま懸命に伝えきろうとしていた。
 何を?
 荒れた粒子のビデオ・テープ。
 ビデオ・テープの粒子は荒れていた。
 「いったい、わたしたちは何処まで流されてしまったのかしら?」
 記憶を開き、記憶を閉じる。遠くを見つめながら、ゆっくりと目を閉じてみる。
 神話の一日は今日も静かに終わっていった。
 今日も僕は足踏みしたよ、とみずうみはすまなそうに雛に侘びることを忘れなかった。
 雛はいいのよそれでと呟いた。
 その夜、ふたりはそれぞれ孤独に眠りに落ちた。
 みずうみが見た夢は?

 掠れてゆくものたちの正体。
 死んでゆくものたちの正体。
 この国で負けてゆくひとびとの正体。
 宝石店を襲う古き良き時代のギャングたちの末路。
 神話として物語として、<いま>が破綻に向かって走り出す。

           ☆かけらの、よん、“暗い金曜日”☆

 翌日、みずうみは巨大なターミナルを擁した繁華街に向かった。
 そこでは様々な人々が無関心という仮面を被り街の中で擦れ違いを繰り返していた。
 長い間、雑踏に揉まれていることはみずうみにとって大変な苦痛だ。
 それでもみずうみは何日かを下見に当てて、めぼしき男たちを見出していた。
 浅黒い肌の外国人たち。
 所在なく街並みに立ち尽くしているときもあれば、若者や少女たちに盛んに声を掛けるときもあるその彼らに、みずうみはしっかりと標準を定めた。
 ある日、勇気を決してみずうみは彼らに近づいていった。予想とは異なり、彼らは親しげにみずうみを迎え入れてくれた。みずうみは用心深く計画を立てて、最初から本題を切り出すことは避けた。
 まずは彼らの言うままに薄暗い路地に入って行き、少量のマリファナを買うことから始めようと決めていたのだ。
 最初の交渉は無事に成功した。
 みずうみは彼らに別れを告げると繁華街のファッション・ビルのトイレに入り、いま買ったばかりのマリファナを水に流して捨てた。みずうみが必要としていたものは、可愛いマリファナなんかじゃなかった。
 それでもみずうみは二日をも置かずに、彼らと同じ様な交渉を一ヵ月ものあいだ繰り返し、その度に排水口にマリファナを流し続けた。そして彼らがマリファナの代わりに覚醒剤を勧めるようになった頃になると、みずうみはようやく本題を切り出した。

 「スピードもニードルもスプーンも要らない。それよりもピストルはあるかい? 僕がいま一番欲しいものはピストルなんだ」

 みずうみが足繁く通った一ヵ月のうちに、すっかり打ち解けていたその外国人の答えは、イエスであり、ノーであった。
 それは確かにある、でもいまここにはない。一週間、待ってくれたら俺がお前のために必ず用意してあげる、お前は十二万円だけ持って、ここに来ればいい、と。

 鈍く光るピストル。玩具のように一番安いピストル。近くて遠い国から流れてきたピストル。みずうみはその大切なロシア製の宝物を新聞紙に包んでバックに忍び込ませた。
 僕はピストルを持っている。これから先、僕の太陽は沈むことがないだろう。

 「僕の太陽は決して沈まない。僕の夜はいつまでも終わらない。誰も僕から盗めやしない。盗み続けるのは僕の方さ。そしてこれからきみがその証人になるんだよ」
 その晩、みずうみは久し振りに貪欲に雛を求めた。
 雛はみずうみの澄んだ瞳に見つめられて、単純な喜びをもって彼を迎え入れた。
 「そうね、あなたの太陽は絶対に沈まないし、あなたの夜は何時までも終わらないわ。見せてちょうだい。わたしがすべてを見ていてあげるから」
 雛はみずうみの「ギャング・ファイル」を覗いて見たことはあった。
 でもそのファイルが示している本当の意味を見落としていた。
 みずうみの薄っぺらな骨格が雛の胸許を押した。だから、だからその夜はただそれだけで雛の喜びは溢れた。

 「わたしはわたしの銀色の天使に食べられて、彼の血となり肉となる。食い千切られながらわたしは、大きくはばたけと彼に祈りを捧げる」

 銀色の天使は古くからの因習に習い、暗い金曜日に決行のときを定めた。

 雛は“ホント”なんて何も知らなかったけれど、微かな兆しだけは感じていた。
 「リアリティ」の残りが僅かになったことに気付いた彼女は、ひとりであの煤けたドラッグ・ストアに出掛けていったのだった。
 しかし数カ月前までは確かにシャッターを開けていたその店は、いつの間にか何かの魔法がかかったように、一片の更地になってしまっていた。
 途方に暮れた雛はとりあえず気を取り直して到るところのドラッグ・ストアに足を延ばしてみた。
 それでもどこの店にも「リアリティ」は置かれていなかった。それどころか、どの店の店員も「リアリティ」という名の薬の存在すら知らない、と口を揃えたように言っていた。
 この店で終わりにしようと思った、古びたドラッグ・ストアで、雛は尋ねてみた。
「リアリティ」という薬を置いてはいませんか?
 異常な迄に醜く太ったその店の初老の主人は、まだ歳若く見える雛の口からそんな問いが溢れたことに束の間、驚いた様子だった。
 それでも古い記憶を呼び覚ますように小さな椅子のうえでその巨大な体躯を左右に揺すりながら、雛に教えてあげた。
 「リアリティか、懐かしい響きだねえ。でもあの薬はもう二〇年も前に製造中止になって、回収されたはずだよ。
 あの薬は良く効く代わりに“世界を反転させる副作用がある”と言われていてねえ。
 そうさ、ネガ・フィルムのようなものだね。
 世界の姿を正しく伝えることは出来るのだけれど、その方法が普通と違うんだよな。
 結局、それでお役所の方も放っておけなくなってしまったんだよ」
 雛の探究はその主人の答えで行き止まりを余儀なくされてしまった。
 もはや雛の部屋の「リアリティ」がこの世界で最後の一瓶であり、その瓶の残りも僅か三分の一程度に過ぎなくなっていた。

 そして金曜日はやって来た。
 一切の猶予もなかった。
 秋雨前線が何度か列島を横断したその後であり、朝から、真夏とは比べようもないほどに高く澄んだ空が広がっていた。みずうみはまだ未明のうちから興奮で寝つけぬままに所在なく空を見上げていた。今日こそ神話が成就するのだとみずうみは意気込んでいた。
 雛はみずうみのそばで何も知らないままに微かな寝息を立てて、部屋の大気を優しく潤していた。
 みずうみは決行の時間を胸の内で確認した。
 閉店間際の午後六時頃。
 美しい夜明けから、長い時間を経て雛も目を覚ました。
 お早う、みずうみ。もう起きていたの、珍しいわね。
 みずうみは自分がただ寝付けずに起きていただけであったことを隠したまま、雛が朝食を作るのを手伝った。
 無事に今日が終われば、新しい神話が誕生するんだよ。
 みずうみは雛にそう言いたくて仕様がなかったけれど、厳格な儀式に則るように沈黙を貫いた。
 食卓で口を開いたのは雛の方だった。
 「リアリティ」は、もうお終いみたいなの、だから大切なときのためにとって置きましょうね。
 みずうみはその言葉を最初は軽く聞き流した。彼自身「リアリティ」のことなど忘れかけていたし、これまで一度も試してみたこともなかったから。それでも雛の口にした「大切なとき」という言葉がゆっくりとその日の彼を知らぬ間に深く深く貫いていった。
 今日ほど「大切なとき」は他にあろうかと。
 雛は普段と同じように作品に取り掛かった。
 みずうみは近づく実行の瞬間のために体力を温存するしようと、アルコホルと大量の睡眠薬を投入して、眠りに着いた。みずうみは日没間際になってようやく雛の部屋で目を覚ました。
 そして予てから思い描いていたように必要な準備を終えると、あとは最後の儀式を行うだけだった。
 みずうみは雛がいつも通り創作に熱中しているのを横目で見計らい、バーボンの栓を開けながら、「リアリティ」の薬瓶を開け、残った錠剤をすべて取り出して、まとめて奥歯で噛み砕いた。ゆっくりと、初めてのその苦さと甘さを味わいながら、口中の「リアリティ」の咀嚼されて細かくなったかけらを、バーボンで一気に喉の奥へと流し込んだ。
 あとは「ギャング・ファイル」に最後の言葉を埋めて、手元に用意したショルダーバッグを抱え、扉を開けるだけだった。
 世界は確かに僕の出番を待っている。
 扉の外にはいまだ晩夏の名残を感じさせた日中よりも、ほんの少しだけ冷たく乾いた風が吹いていた。
 みずうみは雛のアパートメントの階段を足早に降りながら、計画の実行に向けてひたすらに世界に注意を呼び起こした。
 やがて音もなく訪れ始める、反転した世界。
 リアリティが「リアリティ」に変わる瞬間の風を頬に感じて、みずうみは駆け足して雛のアパートメントを後にした。
 待ってて、雛。次にここに戻って来るとき僕は、生まれたての新しい神話をひとつ携えて帰ってくるよ。

 みずうみはあの夏の日、ゆめうつつの狭間で女が囁いた言葉。
 「密かな痛みを手探りして、空白へと降りてゆきなさい。あなたにその勇気があるのなら」
 その言葉を胸のうちに甦らせて、決意を固くさせた。
 僕は僕の空白に降りて、僕のひかりで空白を充たす。
 それが僕の出番だ。
 僕はもう負けることを知らなくなるだろう。

 みずうみは足早に通い慣れた街中を縫うように歩き回った、太陽は今まさに高層住宅の縁に掠れて、オレンジに街を埋め、みずうみの影を染めた、目指す宝石店は事前に予め決めておいたはずだったのだが、今日は気が焦っているせいか中々辿り着けない、この小さな街の商店街で唯ひとつ大きな宝石店、ショルダーバッグの中のピストルの重みを感じると、みずうみの決意は益々固く確かなものになるようだった、大丈夫さ、きっと、そしてとても長い時間、街中を彷徨い、迷い歩いた挙げ句に、閉店間際の宝石店の前でみずうみは立ち尽くした、心を落ち着けてゆっくりと歩を進める、何処からか口中に苦みが甦ってくる、この宝石店だ、確かにここだ、僕の目指した場所は、そうしてみずうみはあの五〇メートル四方の荒野を囲む有刺鉄線に手を掛けて這い上がり、宝石店のドアを開けて、荒野を囲む粗雑な柵を乗り越えて雑草の触感を足裏に刻みながら、畏まって礼をいう店員を一瞥したあと、荒野を一望し、荒野の真ん中の割と開けた空間を目指して、居並ぶショーケースの間を抜け、荒野の高く延びた蔦を分け入って行き、その店の目玉商品である宝石が納められているショーケースにまで辿り着いたとき、ふとショルダーバックの中に手を入れて、中からピストルをゆっくりと引き出して、そばにいる店員の胸元に銃口を突きつけた、騒ぐなと耳元で囁いては、高く風に靡く荒野の蔦に頬を切られて、血の臭いを嗅ぎ、みずうみはついに叫んだ、全員手を後ろに組め、動くな、大人しくこの宝石を渡してくれたら危害は加えない、でも少しでも妙なことを仕出かしたら目の前のこいつの命はないと思え、そういってみずうみは誰一人としていない荒野の真ん中で自分の口の中にピストルの銃口を突っ込んで、そのまま店内を見渡す、責任者らしき者がおずおずとみずうみに近付いて、ショーケースの鍵を開け、中の宝石を取り出そうとしたその一瞬、みずうみは非常警備会社への連絡ボタンを押したひとりの女子店員の行動を見過ごさなかった、動くなといっただろ、とみずうみは即座に銃口を女子店員に向け、荒野の真ん中でピストルを口に銜えたみずうみは、反射的にピストルの引き金を弾いてしまった、店内には警報装置が作動してとても大きな音が鳴り響き、荒野では「不在の荒野」に相応しく乾いたか細い銃声が一発響き渡った、撃たれた女子店員の血はショーケースを汚し、みずうみの脳髄は細かな破片となって荒野の四方に散らばって行った、みずうみは自分が本当に引き金を弾いてしまったことに、神話にとっては本来単なるエキストラに過ぎない哀れな女子店員に血を流さしてしまったことに動転した、もう僕は古き良き時代のギャングではなくなってしまったんだ、オレンジ色の水性マーカーで縁取りを添えろ、その至上の命題がいまみずうみの目前で崩れさったことを悔やんだ、逃げるんだ、いまはともかくも逃げるしかない、早く、速く、遠くまで、ずっと、ずっと、ずっと、何ものにも追いつけないように、早く、遠く、しかし荒野の真ん中で破片と化したみずうみの脳髄の行方を追うものなど誰ひとりとしていなかった、

 本当が「本当」を追い抜くとき、リアルティは「リアリティ」を追い越して、みずうみの脳髄は夕暮れと未明の闇の境目に揺れる五〇メートル四方の荒野に散乱した。
 蔦や芝にはしばらくの間、みずうみの脳漿、みずうみの破片が赤黒くこびりついていた。

 「僕はあそこ、あの荒れ地の真ん中で産み落とされたんだよ。きっと荒野は僕と母親の血で少し汚れたと思うよ。枯れた蔦や芝なんかが全部、赤黒く染まったんだよ、きっと」
 みずうみが雛に向けて最初に開封した神話は、皮肉にもみずうみの最後の神話をも正しく説明していた。

 「ゆうがたのことでした。お母さんがごはんのよういをしていたら、ぼくの空き地のほうから、パンって音がしました。なんの音かはわかりませんでした。とてもこわかったです」

 ほんの僅かな知人によって執り行われた葬儀の最中、終始、泣きじゃくって反狂乱になっていた雛は、突然ふと泣くことに飽きたように、か細く呟いた。
 「おめでとう、あなたはもう目覚めなくていいのよ、みずうみ」

 事件の後、雛の部屋にも警察の捜索が入った。警察はみずうみの<ギャング・ファイル>を押収していった。
 押収されたファイルには、生前のみずうみの筆跡で「犯行」計画が書き込まれていた。
 強盗事件ばかりを扱った新聞記事のスクラップが延々と続く。しかしその最後によれよれの文字で、「犯行」計画が書きこまれていた。たった一行足らず。

 「オレンジの水性マーカーで縁取りをしろ。僕は死にたくなんかない」

☆かけらの、さいご、<眠れ、行方不明の我ら、眠れ>☆

 そして新たな神話が誕生した。
 しかし、その新しい神話はみずうみが企んだ神話とはおよそかけ離れたものであった。
 「雛とみずうみの物語」
 メディアは若く有望な女流芸術家と、その情夫が辿った悲劇をスキャンダラスに書き立てた。
 そしてその物語は何よりも繊細な感性を持ち合わせた多くのハイティーンの少年、少女たちの薄蒼い神話となって、彼らのみどりいろの刹那を勇気づけた。
 でも結局そうした神話は過去も何度に渡って語り継がれた古い神話の焼き直しに過ぎなかった。
 ロミオとジュリエット、ボニーとクライド、シド・アンド・ナンシー、阿部薫と鈴木いづみの神話、カート・コバーンとコートニー・ラブの行方etc。
 それは行く時代を経て語り直され、登場人物だけがその度に入れ替わる、たったひとつの同じ神話だ。
 「覆滅」や「破綻」というキイワードだけが重宝がられて、そこから細部の違いはことごとく捨象されてしまう。
 ボニーとクライドは確かに同じ時刻に劇的に死んだ。でも本当は映画よりももっとちんけな強盗だった。
 ナンシーを殺した後も、束の間シドは生きていた。彼は生きていた。たまたまヘロインという黒い翼の天使を供にしていたに過ぎなかった。
 いづみは薫が死んだ後も生き続けた。死んだように生き続けて、そしてある日、予め定められていた運命をいまになってようやく受け入れたように自ら死を選んだのだった。
 この類型の神話の形式に則って、古くから多くのものが死んでゆくが、それでもそれぞれの死は具体的で、個別の理由によるものであったはずだ。
 でもひとはその個別性、その違いにこそ注目しなくてはならないだろう。
 ねえ、あるものは生きたのだ。あるいはつかのま、確かに生きようとしたのだ。
 死後に世界はない。
 死んだ二人が死後にも結ばれるなんて神話が相も変わらず生き残っているものたちにもたらした淡い期待に過ぎない。
 そしてぼく、わたしはもうそんな薄青い期待からさよならするときなんだ。

 みずうみ

 友達が集まって、年に二回ほど主催する「けち」なグループ展で、ぼくは稚拙だけれど素適な作品と出会った。
 見たこともない素材をアクリル絵の具で彩ったそのうえに、ひらがな四文字が浮かぶ。
 みずうみ
 ぼくのなかに巣食っていたネバネバとしたものが、浄化されるような気がした。
 「ねえ、この作品は誰の?」
 横にいた奴に聞いてみたら、思いがけず、ぼくのすぐ傍から声がした。
 「あっ、それ、わたしの」
 声が聞こえた方に振り向くと、高校の制服を着た女の子が手にキリン・ラガーを持って微笑んでいた。きっと努力して、自分の中に妖精を引き込んだのだろう。彼女はまるで金色の天使みたいだ。
 「すごくいいね、これ」
 ぼくは自分の軽薄な言葉が、神々しい作品を前にして申し訳なく感じて仕様がなかった。
 「ありがと。この会場の奥のほうに、もうひとつ作品飾ってるから、そっちも見てね」
 そうなんだ、期待してるよ、なんて言おうとしたそのときに、気づいた。彼女の右手には痛々しくギブスと包帯が巻かれていた。
 「その右手どうしたの? ケガ?」
 「そうなの、あのね」
 
 パン! 
 突如、乾いた音が鮮烈に鳴り響いた。お母さんがごはんをつくっていたときです。

 グループ展会場が一瞬、沈黙に沈んだ。
 ぼくの脳髄の中で、恐ろしいほどの様々なイメージやデータが高速で飛び交った。ぼくの目の前の彼女、女子高生の顔も蒼白になっていた。だいじょうぶ?
 会場の隅で誰かがシャンパンの栓を抜いたのだった。まわりのひとたちの顔に、笑みが溢れている。そうか、いまは宴の盛りか。おめでとう、祝杯を。
 
 「回復せよ、回復せよ、回復せよ、世界よ」
 
 生前のみずうみのか細い祈りは、生き残された雛の祈りとなって引き継がれた。
 雛は懸命に生き残ってみずうみの祈りを引き継いだ。
 みずうみの死から十数年間に渡って彼女は生き続けた。
 最後の死も決して彼女自身が選択したものではなかった。
 世界をありのままに回復せよ。

 みずうみの死後、あの荒野はしばらく子供たちの想像力によって、因縁深い土地として語り継がれた。
 子供たちは独自の暗号を使って、呪われた神話を囁きあった。
 みずうみの死は、荒野に再び人々の注意を引かせることとなった。みずうみは自らのその「不在」を賭けて、荒野を不在から確固たる存在へと救い上げたのだ。
 子供たちの間の神話、因縁話も底を尽きたころ、荒野の背の高い蔦はきれいに切り倒されて、市と住宅公団の協力により公園設備が整えられた。
 あの懐かしき五〇メートル四方の荒野は「不在」から存在を回復したが、みずうみはその後、永遠に不在を余儀なくされた。
 一方、みずうみの死後、若者たちが神話を語り合っているのを横目に、雛はひとり沈黙を守り通した。
 個展は一切開催せず、「食うための文字」も信用の置ける顧客からの必要最低限の注文に抑えた。
 それでも彼女は「本当の文字」を書くことを放棄した訳ではなかった。いまを生きている本当の自分が掴んだ律動に合わせて、大切に大切に文字を描いた。
 晩年の雛は確かに寡作ではあったが、世間とは遠く離れたところで情熱を絶やさずに文字を描き続けていたのである。そのことを知っているものは少なかった。
 それは雛の闘い振りを知ったものたちが、無責任で貪欲なメディアから雛を守るために最大限の注意を図ったためである。
 雛の守ったひとびとは何故そうしたのか。その理由は唯一つ、そのひとたちが一様に晩年の雛の作品が持つ強さに、本当に心打たれたからに過ぎない。
 「みずうみの時代」が終わって、数年間の空白を経て再び筆を手にした雛は、それまでの技法や筆致をすべて破棄した。
 いや、変わったことは技法や筆致だけではなかった。
 晩年の雛は不思議にも同じ意味の文字を何枚も書き続けたのである。
 自分の生を掴み取るために彼女は執拗に一つの熟語を追い続けたのだった。

 去年の一〇月、奇しくもみずうみの命日と近い日に癌で亡くなった雛の遺骸を、ぼくはこの目で確かに看取った。
 その顔は、生を全うしたひとの死顔というものはこういうものなのかと、告別式に参列したひとびとを感動させた。
 雛はとても穏やかだった、その死顔が。

 「そうなの、あのね」
 女の子は一年前、事件に巻き込まれてしまった。右手のケガは、そのときに負ったものだった。登校前のアルバイト先にて。

 みずうみは死んだ。
 雛はメディアから遠ざかるためにしばらく筆を置き、別の道に食いぶちを探した。
 これまでよりもずっと安価なアパートメントに移り住んで、近くのコンビニエンス・ストアで早朝勤務し、残った時間を創作に充てた。彼女はその暮らしの中で、少しずつ神話の呪縛から身を洗い流すことが出来るようになったのだという。
 しかし現実は容赦なく、次なる事件に彼女を巻き込んだ。
 まさに追い打ちをかけるような陰惨な事件と、その日の記憶の悪夢に、雛は生涯わたって悩まされた。

 その日、いつものように、彼女はまだ陽の明けない早朝のコンビニエンス・ストアのレジスターに立っていた、店内には彼女の他には誰もいない、立ち読みの客すらもいない、そこに突如、覆面をしたふたり組の大柄な男たちが侵入して来た、彼らの手には鉄パイプが握られていた、まずひとりの男がレジスターに駆け寄り、金を要求したのだという、しかし彼女は応じようとはしなかった、コンビニエンス・ストアの従業員マニュアルにはこういう際、すぐに金を出させるよう指示されているにも関わらずだ、もうひとりの男は猛り狂ってさらにわたしに詰め寄った、だからわたしは叫んだの、あなたたちなんかにわたしが殺せるものですかって、けちなギャングがわたしを殺せる訳ないじゃないって、その挑発を真に受けた男は、彼女の右手を目掛けて鉄パイプを降り下ろした、鈍い嫌な音がして、彼女は自分の右手の甲が粉々に砕け散ったのを感じた、しかし思いのほか気弱な我らの時代のギャングたちは、自分が犯したことに驚いて、金を奪うことも忘れて焦って逃亡していった、

 この事件は翌日の新聞の地方版の片隅を小さく占拠した。
 みずうみなら水色の水性マーカーで彼らを飾ったことだろう。

「わたしの右手は完治するまでに一年以上かかったわ。その間は左手に筆を持って文字を書いたりしていたの。いっぱい書いてみたけれど、どれもみんな我ながら不思議な文字だった。でもその事件以来、悪夢を見るようになったの。それはもの凄く単純に、あの日の事件の焼き直しなの。つまりまた右手をへし折られる夢よ。その夢を見た次の朝は、本当にまた右手が砕け散ったように不自由になった。
 でもそんな日に限ってわたしは敢えて筆を握るようにした。
 震える右手をもう一方の左手で懸命に支えて文字を描き重ねたの」

 さようなら、雛。
 さようなら、神話<みたいなもの>。

 書かれた文字は死なない。刻まれた文字は死なない。
 彼女は「わたし」の空白を生のひかりで埋め続けながら、この世界に文字を刻んだ。
 そうして描かれた彼女の文字たちが今日の展覧会で初めて披露された。
 それらの作品は、会場の一番奥に配置された。
 人々がその前で衝撃に打たれたように立ち尽くすことを期待して、会場の一番の奥に配置するように、数人の仲間たちが相談して指揮したのだという。

 「ねえ、こっちよ。見てくれる?」
 右手にギブス、左手にキリン・ラガー。かがやく、かがやく、一八の笑顔。

 それはあまりにも穏やかな死顔でした。

 「みずうみの時代」の繊細な筆致からは、想像もつかないほどに太く力強く描かれた文字。
 彼女が執拗に追い掛け続けた言葉。
 この世界で一番に希求を懸命に伝えるだろう言葉。
 砕け散った彼女の手によって、幾重にも塗り重ねられた文字たち。
 繊細な感性の持ち主なら皆、そこから何らかの信号を捕らえて、それらの文字の前で暫く声もなく立ち尽くすことだろう。
 そうした感動を供にした人々の群れで、会場の順路を滞らせるようにと、祈りをもってこの作品群を展示したという。

 「行方不明」

 それこそ、コンビニエンス・ストアを襲う、我らの時代のギャングたちに、骨を打ち砕かれた彼女が命を削って追い続けた言葉。コンビニエンス・ストアを襲う、けちなギャングに生を邪魔された彼女が、懸命に書き綴った言葉。
 「行方不明」、行方不明だからこそ、ひとは懸命に生きようとする、
 「行方不明」、行方不明だからこそ、その希求は他者の手を求める渇きとなって極限にまで高められる、
 目の前を塞ぐ暗闇に向けて孤独に手を延ばして、いまある自分の生を探り当てようとする仕草、
 わたしはわたしのひかりでわたしの空白を満たす、
 そこには力がある、
 もはや死んでしまった神話など一切必要としない生きた力がある、
 それは生きている文字の力だ、
 それこそ、生きている文字のちからなのだ、
 その文字は叫んでいる、囁いている、その声が聞こえてくる、
 それはおとこの声、おんなの声、雛とみずうみの声、
 つまりは日々、轢き裂かれずにはいられない人々の声で、
 回復せよ、回復せよ、回復せよ、世界よ、そして静かな祈りとともに在れ、と、
 「ねえ、こっちよ。見てくれる?」
 見たよ、
 夢ではないよね?
 ぼくは立ち尽くしたままだったのだから、
 うつつの地平に、
 確かに、
 打たれた、
 焦がれたよ、ぼくは、
 たった四つの文字がぼくの“歴史”を開いた、
 彼女は自身の重い“歴史“を、たった四つの文字に置き換えてみせた、
 ぼくの前に“歴史”を開いてみせた、
 かがやく、かがやく、金色の天使、一八の笑顔、
 学校帰りの制服姿と、キリン・ラガーがあって、
 我らの時代のギャングたちにはけっして盗めないものがある、
 かがやかせるから、かがやくもの、
 ケガした右手を、左手で支えて、
 震えを隠さず、
 刻んだ文字は不死身のようであり、
 ありがとう、安心してって思う、
 行方不明のぼくらは、
 それでも間違ってなんかない。