このサイトでは、ソニマージュ・レコーズのページでは賄いきれない事柄(いっぱいありそうですね)を書き綴りたいと思いますですね。
最初に手がけたいのが灰野さんのCDレビュー。といっても輸入盤まで加えたらものすごい数になりそうなので、まずはじっくりゆっくりPSF盤から。レコード番号順に追いたいと思います。以下の記述に関しては随時、灰野さんご本人の閲覧を経ています。感想に関しては執筆者の自由にまったく任されていますが、著しい事実関係の誤認、その他の要望に関しては訂正されています。
プラス、三上寛さんとの共演作品は「三上寛さんへのサンクス・メール内 CDレビュー」で紹介します。
という訳で、最初は不失者のファースト・アルバム。
の前に、コレだけは書かなくちゃってコトを。
宇宙、灰野敬二。
灰野敬二との出会いはぼくが20歳か21歳そこそこの頃。場所は日仏会館。
いまはGKplanningをやられている、「ゆらぎ」の金田さんの企画で、光速夜+ゆらぎ、WHITE
HEAVEN、割礼、フリクション。そして不失者。
ぼくはこの日、割礼を観に、そして灰野敬二ってどんな音楽をやるのだろう? という期待を胸に観にいった。
この日だ。ぼくのその後の命運を修復不能にした日は。
この日の不失者は圧巻だった。とにかく金縛り状態で客席に釘付け。ステージを眺めながら、ぼくは涙をボロボロ零していた。悲しくもないのに。多分、美しかったのだ。それが美しすぎたのだ。
灰野敬二を語るのにはどうしても印象批評の魔の手を逃れきれない。何故って、まず音楽自体が体感を経由して印象に強く訴えるからだ。そして、それが音楽のあるがままの姿だ。
とにかくその日以来、いまのいま、今日まで灰野敬二を慕い続けている自分がいる。しかし、強く伝えたいのは以下。
運命の日仏会館での印象を灰野敬二本人に伝えたことがある。そのときぼくはこう言った。
「ステージを観ているとき、ああ、ぼくはこの人(灰野)に殺されるって思いましたよ」
その後の灰野敬二の答えこそぼくの耳を、胸を刺した。よく記憶している。
ただ一言。
「どうして僕がきみを殺さなくてはならないの?」
そう、灰野敬二はぼくを殺したりしない。ぼくは灰野敬二に殺されはしない。ぼくは灰野敬二の音楽をこのとき、どれほど誤解してきたかと悔やんだ。
灰野敬二にとって、ぼくは愛すべき宇宙の一片なのだ。いつも宇宙と一体になるために音を発しているひとに、ぼくはどれほど失礼な言葉を吐いてしまったのだろう。
音楽は生まれた途端に宇宙になる運命にある。
発信者に内在していたものが、発信という行為で、発信者自身から奪い去られたとき、
音はすでに宇宙にあり、宇宙に消える。
このことは灰野敬二という人物が、心底、こころのそこという場所において、温厚な人柄であることと無論、無関係ではない。
灰野敬二は誰をも殺さない。
あなたが宇宙にある限り、慈しみは止むことを知らない。
(了)
アルバム「不失者 T PSFD3〜4」
PSFでの最初のアルバム、「不失者 T(PSFD3〜4)」を解説するにあたって、
いきなり大きな壁と立ち向かわなければならないと感じる。
上述の通り、灰野敬二の音楽は印象批評の魔の手を逃れるのが困難だ。
それは言葉を変えると、印象から批評への跳躍の困難そのものだ。
仕方ない。
仕方がない。
これからの叙述はまず印象を書き綴る。
その後に、批評へと書き換えるように更新する。
webページの更新そのものとして。
「不失者 T」
を聴き思うこと(つまり印象)を簡潔に若干。
2000年に発売された「哀秘謡 ライブ」の帯の文句
「日本においてロックはこの様にして創まるべきだった」
「不失者 T」
は
正にその様にして創まっているというコト。
それがひとつ。
ふたつ、
全曲に渡って「うた」が「当たり前」のものとして在る
ということ。
不失者のその後の作品では、
「うた」は必ずしも「当たり前」の前提条件ではない。
「不失者 T」
の特異性はその辺りに潜んでいるような気がする。
仕方ない。
仕方がない。
全編、これ言葉の一番広義におけるゴスペルに聴こえて、
仕方ない。
仕方がない。
ゴスペル、霊歌、祈り。
ここでも印象が聴くものを導いて
仕方ない。
仕方がない。
正にゴスペルだと確信する。
ゴスペルだと確信すると
仕方ない。
仕方がない。
アルバム1枚全編への印象(やがて批評)を書き綴るだけでは済まされない。
この場合、1曲、1曲を丹念に聴きたい。
LAMAMAでのライブ録音。
まずは、
美しいトーンと単音で繋がれるブルース・フレーズが鮮烈な、
「あっち」
歌詞をその場で作るということは灰野敬二本人もよく口にすることではある。
ただ通例では有効であろう前提が実際にこの作品にも応用されるものなのか分からない。
ただ、いずれにしても、灰野敬二ほど言葉を大切にしている音楽家はいない。
この前提は変わることがない。
この「あっち」の歌詞がこのアルバム冒頭を飾る一種のマニュフェストに感じる(またも印象だ)のは
決して偶然ではなかろう。
歌詞を音楽が鳴っているその場で紡ぐことは非常に大切だ。
詩、言葉が音楽と乖離することがない。
「のうみそのなかを くすぐってあげるつもりなんだ」
音楽が補足するのか、言葉が補足するのか?
ともかく約束は果たされる。
ヴォーカルには深いリバーブが掛かる。
音、残響音を任意に、人為的に決定したい野望で音楽家はこの手法を選ぶ。
冒頭から奏でられるブルース・フレーズが様々なバリエーションを経て循環する。
かってこのようなブルースの解釈は日本のいかなるアーティストもしていなかった。
途中からかぶるギターのソロ・トーンがチャイムのように美しい。
そしてラストでは、それまでのブルース・フレーズを遮って、
バンド全体がまさにチャイムを連呼し終わる。
「のうみそのなかを くすぐってあげるつもりなんだ」
「暗号」
前曲のラストを引き継ぐようなイントロダクションを経てから、印象がまったくガラリと変わり、
灰野敬二にしては比較的に低音に属するヴォイスが演奏全体を引っ張る。
後に現れるコード進行などは現在のライブでも使われているモノ。
演奏自体の高揚とともに灰野敬二のヴォーカルも高音を交えたものとなる。
演奏とヴォイスによって空間の隙間をすべて埋め尽くす。
音楽だ、これこそ。
名曲といって差し支えない。
だからこそ今日まで多様なヴァリエーションで歌われているのだろう。
10分という時間が短くさえ感じる。
素直に大好きな曲と書けばいいのかもしれない。
「すきにやればいい」
印象深いのは小沢靖のベース。まったくもって無駄がないのに、
圧倒的な存在感だ。
曲調は静寂の不失者。
静寂の不失者特有の慈しみが全編を貫く。
「すきにやればいい」
灰野敬二のギター・ソロは強いアタックの後にロング・トーンで引っ張るスタイル。
壊れてしまいそうなアタック音と、
壁を築きあげるようなロング・トーンが混在し、
収斂したかと思えば、すぐに拡散し、また収斂する。
「とどかない」
冒頭は前曲を引き継ぐような静寂から。
パーカッションが見事。
ブルース・ハープが静寂の薄い膜を抱擁しては、
次の瞬間には引き裂くように鳴る。
灰野敬二のヴォーカルは包み込むような声。
旋律はブルースそのものだ。
「ちだらけ」
その言葉が怖い。
いや、怖がることはない。
三浦真樹がここで紡ぎだすギターの旋律はシド・バレットが作ったリフを思い起こさせる。
バンド全体で高揚してゆくさまがなんとも美しい。
ギターによる先の丸まったソロ・トーンで曲は終わる。
予想し得ないドラマの結末。
「ふわ ふわ」
楽曲としての完成度が非常に高い。
現在まで様々なヴァリエーションを伴って歌い継がれている、
名曲。
灰野敬二の優しい囁きで始まる。
先の丸いギター・トーンでのコード進行が続く。
灰野敬二の高い叫びが極まる。
先の鋭いギター・トーンでのソロ・フレーズが続く。
その対比が見事。
小沢靖のベースがこの曲にどれほど貢献していることか、
計りしえない。
高揚を経た後の余韻を紡ぐラスト。
「なったんじゃない」
間違いなく灰野敬二の陣頭指揮で紡ぎだされたリフを
バンド全体で追ってゆく。
灰野敬二を追いかけるようにだ。
紡ぎだされたリフが単調なのは、
解体の後ではなく、
音楽の原型の形を志向したものだろう。
ファズ・ギターのトーンが鋭い。
祈りは歌詞そのものだけでなく、
楽曲が希求するものだと良く分かる。
「もっと はやく」
の言葉に応えるように演奏も突然に変わり、
果てる。
「迷子」
静寂の不失者とはいっても、
ここでは形あるひとつのリフを紡いで、
より厚い音へと仕上げている。
灰野敬二の囁くようなヴォーカルはいまにも消え入る寸前を捕らえたもの。
しかしこのリフほど死を、生への祈りを身近に予感させるものはない。
小沢靖のベースがここでも重要な役割を果たしている。
灰野敬二がギター・ソロに向かっている間、
祈りを繋ぎとめている。
「ここ」
26分に及ぶ大作。
複雑なイントロダクションだ。
後にあまりに格好よいリフが続く。
灰野敬二のヴォーカルが一際なめらかに響く。
おそらくこの辺りが灰野敬二のノーマルな地声だ。
ドラムは打点をどこにつくか慎重だったであろう。
後のようでいて、先のように機能する打点。
そして、静寂へと帰る。
その突然さに驚くといい。
灰野敬二の祈りは高音を志向する。
低音を小沢靖が埋める。
ゴスペルだ。
言葉の広義の意味で、しかし本物のゴスペル、「霊歌」だ。
ブルージーな演奏に戻ると、
その意味がより鮮明になる。
ここでの灰野敬二のギター・ソロの美しいこと。
後半部は一度聴いたら忘れられない。
切ない?
そう、たまらなく切ない?
結局、印象批評どころか実況しか述べられない、
このアルバム。
その切なさが身に染み渡る魔術から逃れられないせいかもしれない。
ラストでは灰野敬二自身が言葉を無化してみせる。
言葉の先にあるものへと聴く者を誘い込む。
アルバム「滲有無 灰野敬二 PSFD−7」
エレクトリックやパーカッションとの交錯であるが、
最初に浮き上がるのは灰野敬二の定型を紡ぎ、定型を滲ませその有無を取り払うヴォーカルにある。
後の滲有無のエレクリック・ユニットのメンバーにはかなりの変遷があったらしく、
クレジットのない灰野敬二のアルバム装丁からは詳しいことは窺い知れない。
一時、GHOSTのメンバーが参加していたと聞いているが、
それは実際にはもっと後のことでこの当時のものではない。
クレジットに灰野敬二とあり、ソロ・アルバムと後の滲有無的にも引き継がれるなにものかを、
すでに懐胎しているのだろうが、最低限の区別は必要。
灰野敬二はぼくに言ったことがある。
「たとえばテロニアス・モンクのLPだけを掛けて、それにぼくが歌うだけのライブ」
というプラン。
このアルバムを聴いてその話を思い返した。
モンク同様とは言えないが、定型前夜の容貌を手札にして使う。
つまり「自覚的に、意図的に自然態に近づくことで、しかし前進した音楽になる」演奏も巧みだ。
結果、モンクのLPなくして、本質は灰野敬二ひとりで再現できている。
残念なのはこの時期のPSF盤全般にいえる、
マスタリング・レベルの低さ(音量の問題、音質ではない)。
だからこそ神秘的に感じたのもまた事実。
中途、長く割かれるパーカッション。
灰野敬二自身のリズムとそうでないもの(電気的なフィードバック現象など)の交錯が良く分かる。
灰野敬二の高音を執拗に追うヴォイスは歌を詠う「音波」。
中盤のバックとヴォイスのあり方は相互補完ではなく、
ヴォイスが中域ならバックも同様。
高域ならバックも高域でまくしたてる。
しかし、後半になって関係が相互補完に変わる。
灰野敬二の中低域のヴォイスに高域のパーカッション。
ここからが佳境だ。
歌を詠っている。
そのことに注意したい。
壮絶なラストについてはここでは実況できない。
聴いて震えて欲しい。
次に待ち受けているのはオムニバス
「Tokyo Flashback」
PSFでの灰野の歩みでも避けて通れないこのオムニバス盤を
レヴュー。
「こっち、おまえ」
当時様々なヴァリエーションでライブ演奏されていた。
この録音もおそらくライブ録音だろう。
ヴォーカルの録音レベルが低いことでそれと知れる。
前半はギスギスしたリフで押す。
小杉淳のドラムが転がる。
個人的に好きなのはむしろ後半部。
曲調がスローになった分、
灰野敬二のカッティングが冴える。
歌詞が痛い。
「死んでしまった、お前」
「生きている、ぼくたちは」
「誰なの?」
灰野敬二はぼくに言った。
「僕はみんなに分かる簡単な言葉しか使わない」
だから人間のことを歌えるのだろう。
完璧なコード進行。
「たった今」
灰野敬二のソロ、写真から判断すると、録音場所はゴスペルだろうか?
ともかくこの録音がなければ、この東京サイケデリック・シーンの名盤も評価が違っていただろう。
身体の底から、イノチの底から振り絞られるヴォイス、
凄まじいの一語に尽きる。
深いリヴァーブ、すがり付きたかったのだろう、
この世界に、声が、言葉が。
「歌」を志向している。
しかし納得のゆくまで、
歌われない歌。
歌になった瞬間にありのままの優しいヴォイスに変わる。
アルバム「不失者 PSFD15−16」
PSFD15
この頃に至るとドラムの小杉淳の演奏が冴える。これで鉄壁の不失者が誕生する。
ハード・ロックのリフをさらに簡素化したようなギター。
CDのマスタリング・レベルが今の時代にあっては寂しいところだが、それなりの装置で再生して欲しい。
きっと言葉を亡くす。
この頃には持続的高音を灰野敬二が、持続的低音を小沢靖が、打点を小杉淳が担っている。
曲単位に歌詞が乗っかっているが「不失者 T」と違う点は、ヴォーカルのミキシング・レベルの違いだろう。
そして幸か不幸か、そうした些細なことが結果として、両者の大きな差を生んでいる。
「不失者 T」では歌が演奏を規定している印象を与える。
いまこの「不失者」の段階では、その時点を飛び越え、バンドとしての纏まり、成熟を演奏に見せ付けられる。
PSFD15は6曲表示だが、一曲、一曲ごとの違いよりも、曲同士の「連なり」の方が大切にされている。
2曲目のラストが異質だ。軽快(?)ともいえる展開。
当時、灰野敬二愛用のギブソン・SGの粘る音質が特徴的。
轟音だけではなく要所要所に肩の力を落としたような静寂が仕掛けられている。
4曲目の冒頭の小沢靖のベースの美しいコト。
旋律に乗る灰野敬二のヴォーカルも美しい。
静寂の不失者は健在だ。
さらに原初的な歌をも志向している。
このトラックは大事だ。
PSFD-16
PSFD−15と較べて曲と曲のコントラストが鮮やか。多彩に感じる。故に各曲、実況可能だ。
冒頭は「静寂の不失者健在」だ。
短いデジタル・ディレイでのダブリング効果のギターで海を作り、歌を紡ぐ。
歪みの設定に気を使っているのだろう、低音は歪んでいても鐘の音のように響く高音のギターが印象的だ。
対して2曲目の不失者はユニークなパターンを追いかける。
このパターンのジャンル分けは不可能だ。現代音楽? そうかもしれない。
3曲目は当時、ライブで聴いたもの。
小沢靖の存在感、小杉淳の程よい軽さがかっこいい。そう、単純にかっこいいのだ、ロックとロールがあって。
4曲目、灰野敬二のヴォーカルを重視したい。大切なことを歌っているのに、ミキシング・レベルが勿体無い。
意識が歌に向かっているとき特有の灰野敬二の演奏が感じられる。しかし小沢靖の低音もまた凄まじい。
この曲に限らず、「お前」と歌うとき灰野敬二はとみに真剣になる。
5曲目は美しい。歌、演奏に相応のバランスが置かれた楽曲。
高音のヴォイスがきらめく。ただし、比重は歌に置かれている。
三位一体の宇宙と聴こえる。すべて灰野敬二の言うところの白魔術の実践だろう。
このギター・トーンの美しさよ。
6曲目はハード・ロック。
冒頭、ジャズのシンコペーションに走る小杉は正しい。
収録曲中、唯一、ヴォーカルのミキシング・レベルが相応の楽曲。
パンニングが多用されているのか? よくうねる。
7曲目もハード・ロック。
当時、ライブでは必ずと言っていいほどよく演奏された曲だ。
ギブソンSGの真価が発揮されたカッティング・トーン、よく粘るソロ・トーン。
ギター・ロックという区分も可能かもしれない。
その他、ダンサブルな点が重要。
不失者に限らず灰野敬二の音楽は踊れるのだ。
灰野敬二は「あの曲で踊らない方がおかしい」と客席の模様を語るときがある。
ぼくも灰野敬二の音楽で踊れない人間は野暮だと、かねてから強く思う。
ある意味、単純とも言えるこの楽曲で、長く複雑だった「この曲に至るまでの時間」が祝福される。
PSFD15〜16はその長さが命だ。帯どおりの見解になってしまうが、ねらいは長さだ。
サイケデリックの仕掛けのひとつ、音楽が鳴る長さが聴き手に引き起こす効果を重視している。
様々な音が鳴りつづける事、その単純な効果の大切さが詰まっている。
しかし、ミキシング・レベルは今日ではやはり疑問だ。
PSFには大変な負担になるが、やはり将来的にリマスタリングを望みたい。
アルバム「慈 灰野敬二PSFD−23」
灰野敬二、ギター一本によるソロ・ライブの実況盤だ。
当時の灰野敬二ソロは大体この形で90分前後行われていた。
うたにこそ注目したい。
哀秘謡前夜においての灰野敬二の「うた」は一種、形を志向しないために理解する側の方が、灰野敬二の意図に追い着けずにおごそかにされすぎていた。
しかしこの「慈」を聴いても分かる通り、うたによってギター演奏が規定されている。
うたにもギターにもリヴァーブがたっぷり掛かっている。
残響を人為的に、私の演奏として残響を鳴らす意図だ。
ソロでの哀秘謡に通じるものをいまに至って聴くこともできる。
哀秘謡のレパートリーは灰野敬二自身が「うた」と確信しているものが並べられている。
灰野敬二のオリジナルによるうたも、灰野敬二自身が「うた」と確信している点で通じる。
キャッチーという言葉を灰野敬二はどう思うか分からないが、
前半はぼく、私にとってキャッチーなうたが響く。
鉄の壁のようなファズ・ギターによる演奏が挟み込まれる。
それでもギターが歌っているのが分かる。壁という形容は間違いかもしれない。
蠢いている音の塊。塊という形容も間違いか。実際はもっと繊細で流動性を持つのだ。
それが過ぎ去ると灰野敬二のウィスパー・ヴォイス、美しい。
よく聴いたうたが奏でられる。
久しぶりに出会ったが、やはりいい曲だ。
壮絶なギター・ソロ。
後の「悲愴」のリフが予め解体した形で示される。
この当時から「悲愴」のリフは灰野敬二の内に鳴っていたのだろうか?
上述の完璧なコード進行がここでも顔を出す。
B−G−C−E
このコード進行は非常に魔術的だ。
一度、覚えてしまうと身に染み込んでしまう。
さらに次の曲からの伴奏はギタリスト灰野敬二の本領を聴くことができる。
低音弦と高音弦ではまるで違う楽器のように響く不思議。
発売当時「ノイズ・ギター」との許せない誤解があった。
よく音の粒子を聴いて欲しい。バリエーションに富んだ粒子が発散しているではないか。
うたに解消されない「声」でアルバムは終わる。
「慈」
タイトルとこの内容との相関をあなたはどう感じるか?